第2話 暗幕の裏側で会いましょう
歌姫が日々暮らし、過ごしているのは、空中庭園の端に建てられた小さな屋敷だ。
空中庭園と呼ばれるからには、この場所に辿り着くには特殊なまじないを施した石で造られた方舟と呼ばれる、空中へ移動する為の舟が必要になっている。
毎朝召使い達は方舟に乗り、ストレリチアの身の回りの世話や庭園の管理をしているが、それは同時に、決して其処から歌姫が逃げ出さないよう措置がなされている、という事でもある。
現に、ストレリチアは歌姫となったその日から、この場所から出た事は一度たりともない。
高熱にかかり床に伏せった時でさえ、どれだけ泣き喚こうと嘆こうと、王である父や、腹を痛めて産んでくれたであろう母でさえ、庭園から出る事を決して許してはくれなかった。
此処を出るのは、お前が歌姫の役目を終える時なのだ、と、諦念と悲哀を混ぜ合わせたような表情を浮かべて告げられたその時の事を、絶対に忘れる事は出来ないだろう、とストレリチアは静かに思う。
舞台が見える一番大きな部屋は歌姫の私室になっていて、窓を広く取っている為に、日当たりもいい。
年中温暖な気候を保つラテア国では、暑さ寒さに困る事もないので、夜を除いた時間帯は、常に窓を開け放っている。
部屋の中は広く、天蓋付きの大きなベッドや白を基調とした家具で揃えられており、どれも取っ手や表面に細やかな金の装飾が施され美しいものではあるけれど、ストレリチアはそれらをあまり気に入ってはいない。
それらはストレリチアが歌姫になった際、前代の歌姫のものを全て撤去し、ストレリチアの為だけに父母が特別に作らせ運び入れたものだが、それが余計に自らの役目の重みをありありと感じさせるからだ。
そもそも、白はあまり好きではない。
仲の良い、年の離れた兄だけは、いつも色鮮やかなものばかりを贈ってくれているが、それはストレリチアの好みを熟知している為である。
中でも真っ赤な宝石が付いているチョーカーをいっとう気に入っていて、肌身離さず身に付けている程だ。
だから、いつも白いドレスを着用している時だけは、この空中庭園で閉じ込められた歌姫という自らの役目を見せつけられているようで、どうにも好きにはなれないのだ、とストレリチアは思う。
ストレリチアは朝の役目を終えると直ぐに着替えをする。
歌い終えて数分もしないうちに、閉ざされていた部屋の扉が静かに開け放たれると、若い二人の侍女が姿を現す。
一人は見慣れた顔をしているが、もう一人は初めて見る顔だ。
その事に、ストレリチアは僅かに警戒するが、気取られぬよう笑顔を浮かべる。
侍女達はにこやかに笑みを返して頭を下げると、無駄のない動きで扉の前に用意していた衣服や装飾品などを中へ運び入れていた。
側に控えていた筈の少年は、侍女達が部屋へと入ってくるほんの僅かな間に姿を消していて、その事を確認したストレリチアは、侍女達の手によって細やかな金の刺繍を施した真っ白なドレスを脱ぎ、夕暮れの空より真っ赤なドレスを身に纏う。
そうして彼女は漸く、そっと安堵の息を吐き出すのだ。
それが、本来の自分である事を実感するかのように。
着替えを終え、侍女達がその後を片付けると、中央に置かれたテーブルの上には焼き菓子や果実水などが準備されているのを目にした。
何も変わらない日常に、ストレリチアは密やかに息を吐き出すが、見慣れない顔の侍女が、不思議そうに窓に近付いているのを見つけて、僅かに眉を寄せてしまう。
一つだけ開いていないその窓には、分厚いカーテンがしまったままだ。
「姫様、こちらの窓も開けましょうか?」
気を利かせたつもりの侍女が、しまったままのカーテンに手をかけようとした時、凛と響く声がそれを止めた。
「そこには触れないで」
口元に指を添え、にこりと音が鳴りそうな程に、ストレリチアは笑う。
決して威圧感は与えないように。
けれど清廉さを失わないように。
「そこにはわたしが大切にしている小鳥がいるの。とても繊細な子だから、決してそこには触れないで頂戴」
その言葉に、見慣れた顔の侍女は弾かれるように顔を上げ、もう一人の侍女を非難するよう視線を向けた。
何をしてしまったのか理解すら及ばないらしい、戸惑いの眼差しを向けたまま首を傾けていたその侍女は、自らの失態に気付いた瞬間、丸みを帯びた頬を青ざめさせ、地面に膝をつき深く頭を下げている。
ごめんなさい、申し訳御座いません、と肩を震わせて謝る侍女に、ストレリチアは緩やかに首を振り、カーテンの側へと近づきながら、柔らかく眼を細める。
「良いのよ。事前に言っておけば良かったわね」
ごめんなさい、と言って彼女を見下ろせば、血の気が引いてしまって真白になった手のひらはぶるぶると震えている。
声にはならない声で呟いた言葉でさえ彼には届き、心まで理解されているかのように、この気持ちも届くのだ、と知っているストレリチアは、困ったように笑って、静かに頷く。
「怖がらせてしまったのね、もう大丈夫よ。どうか、先程のように笑顔を見せてくれたら嬉しいわ」
優しい声音でそう告げているかのように、口元に手を当て、唇の動きを悟られぬよう首を傾けると、新米の侍女は瞳を潤ませて両手を握り締めた。
この国では、歌姫の人気は絶大のものである。
美しく可憐で、分け隔てなく優しさを見せるという姫君なのだと囁かれ、王族の誰よりもその存在を知られていて、人買いに攫われていた子供でさえその名前を知っているのだ、と従者である少年から聞かされている程だ。
そんなに大それた、人から褒め称えられるような人間ではないのだけれど、とストレリチアは内心で苦笑いを浮かべるけれど、それを決して面に出す事はない。
期待には応えなければならない、のだ。
それが真実であろうとなかろうと、自分の為に犠牲になる誰かがいるのなら、せめてその期待だけには、応えなければ。
淡く微笑むストレリチアに深々と頭を下げた侍女は、「姫様に可愛がられているなんて、その小鳥さんもきっと本望でしょうね」などと言って笑う。
深々と頭を下げ、静かに扉に向こうへ消えた彼女達を見送ると、ストレリチアは堪え切れないと言わんばかりに深く長く息を吐き出した。
侍女達が出て行くと、部屋の中は途端にしんと静まり返っている。
この庭園はあまりにも高すぎて、周囲の音があまり響かないのだ。
その事に、言いようのない気持ちになって唇を緩く噛むと、小さな笑い声が響いている。
「全く、おしゃべりで図々しい侍女ね!」
「わたしの小鳥」と称されていた少年は、分厚いカーテンの裾を引っ張り、身体に巻き付けるようにして遊ばせながら、ストレリチアの声を真似てそう言った。
くすくすと声を零して笑っているので、きっとあの新米の侍女が二度とこの空中庭園へは来れないだろう事を知っていて、楽しんでいるのだろう。
侍女としての仕事を辞めさせられる、という事まではないだろうが、堅牢に守られなければならないこの空中庭園で求められるのは、決められた事を決められたままにこなせる従順さだ。
彼女のように細かい気遣いが出来てしまう者は、きっと他の王族には重宝されるだろうけれど、歌姫とその周囲には必要とされる事はない。
可哀想かもしれないけれど、と睫毛の先に憂いを含ませて震わせたストレリチアは、深く長く息を吐き出した。
『私、そんな意地の悪い事を言った覚えはないけれど』
音にならない声でそう言うと、彼は片目を細めて笑いながら、彼本来の声で「俺はあの子、あんまり好きじゃないなあ」などと言う。
温厚そうな顔をしているわりに彼は案外警戒心が強く人嫌いで、新しい侍女が来る度に、こうして何かと毒付いている。
それは、此処に連れて来られるまで余程酷い環境にいたからかもしれないし、彼本来の性格かもしれないが、裏表なく素直に思った事を口にしているだけなので、ストレリチアは然程気にはしていない。
『少しおしゃべりではあるけれど、いい子そうじゃない』
「ああいうのに限って実は性格悪いんですって」
『あなたみたいに?』
「うわ、酷い。俺は傷つきましたよ?」
そうは言いながらも、身体に巻きつけていたカーテンを手で払い、けらけらと笑いながら小さく歌を口ずさんでいるので、きっと言葉の上だけの事なのだろう。
まあ、本望なんて言って欲しくはないと思ってはいたけれど。
心底そう感じながら、ストレリチアは言う。
ただでさえ、彼は自分の為に犠牲になっているのだ、と思うと、悔しくて苦しくて堪らなかった。
自分が存在する為だけに誰かを不幸にしている、という事を目の当たりにしたくはなかったから、かもしれない。
どちらにせよ、なんて自分勝手な思いなのだろう、と眉を顰めて息を吐き出すと、アキレアは笑みを浮かべたまま、不思議そうに首を傾けている。
「本望、とは流石に言いませんけど、俺は感謝してますよ? 人買いのクズどもの所から拾われて、姫様の代わりに毎朝ちょこっと歌ったり話したりするだけで、こんなに良い暮らしが出来るんですから」
そう言って、侍女達が用意してくれた焼き菓子や果実水などを物色しているアキレアは、グラスに果実水を注ぐと、恭しくストレリチアに差し出して見せた。
その態度が気に食わなくて(だって、わたし達は同じものだと思っていたいのに……)、ストレリチアは子供のようだと理解していながら、首を振る。
『だけど、結局ここに縛られているじゃない』
「お役目さえ済めば、こうして姫様とおしゃべりしながらお菓子を摘めるんです。掃き溜めみたいな暮らしをしていた事を考えれば、ここはまさに天国ですよ」
『でも、わたしは皆を騙して、あなたを縛り付けて、いずれは結婚相手までをも騙すのよ?』
でも、を繰り返しながら、子供の言い訳のように泣き言を言う自分こそが一番惨めでみっともない、とストレリチアは唇を噛み締めた。
歌姫はいずれ代替わりをする。
次の姫が生まれればその姫が歌姫となり、前任の歌姫は他国の王族などと結婚をさせられるのだ。
ストレリチアには兄がおり、数年前には娘が生まれている。
十歳を迎える時、彼女は歌姫として任命されるのだろう。
そして自分は、名前も顔も全く知らない他国の王族と結婚しなければならない。
歌姫だと持て囃されながら声を出せなくなってしまったこんな自分を、一体誰が欲しがるというのか。
ストレリチアはそう嘆いたけれど、父や母は、病気で一時的に声が出ないだけだと言えばいい、などと慰めるばかりで、ストレリチアの気持ちなどほんの僅かも考えはしないのだ。
分かっては、いる。
それが、この国の姫として生まれた自分の役目なのだと。
だとしても、いつまで自分はこうして誰かを騙して、騙し続けて、不幸にし続ければ気が済むのだろう、とストレリチアは思うのだ。
最低だわ、と呟けば、アキレアは呆れるように肩を竦めている。
「姫様、顔はかわいいんだから、どこに行ったって大丈夫ですって」
顔、は?
引っ掛かりを覚えて視線を向ければ、アキレアは確かに首を縦に振って肯定を示している。
「性格はブスだな、って話です」
あまりの言葉にストレリチアが無言で近場にあったクッションを次々に投げつけると、少年は楽しそうにそれを受け止めながら笑って見せた。
ストレリチアが感情を露わにすればする程、少年はいつもそうして楽しげに笑うのだ。
なんて腹立たしい、とストレリチアは怒るが、こんなふうに気を許して言葉を交わして笑う事が出来るのは彼だけだ、とも十分にわかっていて、その上、この不確かで不誠実な関係性が心地いいのだともよくよく理解しているので、口先を尖らせてそっぽを向いてしまう。
「もうちょっと気楽にいきましょうよ、姫様。俺は楽な暮らしの為、姫様はこの国の為、互いに利用してる、って思った方が楽に生きられますよ」
そう言って、彼は焼き菓子をひとつ、唇の前に差し出してくる。
真っ赤なジャムを乗せて焼かれたそれは、芳醇なバターと甘やかな果物を煮詰めた香りがして、思わずこくりと喉がなってしまう。
確かに、あなたの気の抜けた笑顔を見てると力が抜けるわ、と言って、彼の差し出した焼き菓子に唇を近づけ、齧り付いた。
行儀の悪い仕草であるのはわかっていての行動で、伏目がちに彼を見れば、矢張り楽しげに眼を細めて小さく歌を口ずさんで、笑っている。
口の中でほろほろと崩れていく焼き菓子の儚さに、ほ、と安堵の息が漏れた。
この空中庭園で、この部屋の中で、この秘密を知っているのは彼と自分だけ。
その甘やかな共有を密かに楽しむように、ストレリチアはゆっくりと目を細めていた。
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