第12話 響かせた音が同じものであるように
空中庭園から飛び降りた瞬間、誰かの甲高い悲鳴が響いていたが、すぐに耳元は痛い程に風を切る音に覆われ、髪やドレスの裾はばたばたとはためき、髪や耳を飾りつけていた宝飾品は空へと攫われていって、眩い光を受けてきらきらと輝きながら消えていく。
目蓋の淵からじわりと滲んだ水分さえ、水玉となって空に溶けていった。
怖くて、怖くて、とにかく怖くて、堪らない。
自由になるという事、誰かを愛するという事、それを口にする事、何もかもが怖くて、堪らなく、なる。
だけどもう、そんな事はどうでもいい、とストレリチアは、思う。
だって、わたし、あなたの為なら何だって捨ててみせるのよ。
この先の未来を、この生命を、この身体の中にあるもの全てを捨てたって構わない。
あなたに祝福を届けるのは、わたしでありたいの。
それを、どうか、信じていたいし、信じて欲しい。
ぎゅうと目蓋を閉じ、祈るように両手を握り締めると、微かに誰かの声が聞こえた気がして、ストレリチアは懸命に眼を開いた。
視界いっぱいに突き抜けるほどの青空が広がって、その中を、色鮮やかな羽根がふわりふわりと降り注いでいる。
そうして勢いをついて落ちていた身体を何かが掴んで、痛みに顔を歪めていると、背や肩などを支える手が次々に現れ、気がついた時には、空中でふわふわと浮いているようだった。
驚いて周囲を見渡せば、自分と同じくらいの年頃の人々が、ストレリチアの身体を支えてどこか楽しそうに顔を覗き込んでいる。
その背には、赤や黄色、緑、青など、鮮やかな色合いの大きな羽が生えていて、初めて見る有翼人達に驚いていると、彼らは好奇心に満ちた目でストレリチアを見つめ、次々に口を開いてはしゃぐように話し出している。
「あなたがさっき歌ったのは、愛のうたでしょう?」
「聞こえたわ! とても素敵な愛のうただった!」
「ねえ、もっと聞かせてよ!」
まるで自由な鳥達のように騒ぐ彼らに圧倒され、狼狽えたストレリチアは、けれど耳に届く声に、は、と息を零した。
「姫様!」
下の方からアキレアの声が聞こえ、ストレリチアは咄嗟に身を捩らせようとするけれど、どうする事も出来ずに狼狽えている間に、身体を支える彼らは緩やかに翼を羽ばたかせ、下降していく。
十歳から空中庭園に閉じ込められていたストレリチアには、此処が一体何処なのかさっぱりわからないけれども、はちみつ色の建物がひしめくように並んでいて、騒がしい声が少し離れた所から聞こえているので、街の一角だろうか。
そうしてストレリチアは地面へと降ろされると同時に、アキレアの伸ばしている腕に抱き抱えられた。
良かった、と、彼の吐息が髪を揺らして、身体から伝わるあたたかい体温に、今更恐怖やら安堵やらが一気に押し寄せてきて、目蓋の淵からじわりと水分が滲んでしまう。
ぐらぐらと視界を揺らしながら、涙を零さないように堪えるストレリチアに、アキレアは安心したように笑って、彼がこれまでの間に何をしていたかを知らせてくれた。
アキレアと兄の従者であるティニーユーは、半月ほどかけて故郷へと帰り、ストレリチアを助ける為に手を貸してくれるよう彼らに頼み込んで、また半月かけて此処まで皆を連れてきたのだという。
きっとティニーユーが城へと帰って来た事で、兄は自分を逃す為に行動に出てくれたのだろう。
ずっと自分の事を気にかけて、どうにか空中庭園から出そうとしてくれた兄に、感謝の気持ちを胸の内でそっと呟くと、でもまさか姫様があそこから飛び降りるとは思わなかったですけど、とアキレアが呆れたように言うので、ストレリチアは思わず彼の肩に額を押し付けた。
だって、きっとあなたがどうにかしてくれると思ったんだもの。
そう口にしようとして、ストレリチアはきゅうと眼を細めながら、すっかり頼りなくなってしまった首元に手を当てた。
ストレリチアの異変に気づいたのか、アキレアは心配そうに声をかけてくるけれど、喉が震えて、上手く息が吸い込む事が出来ない。
引き攣るような呼吸をどうにか宥めながら、ストレリチアは両手を強く握り締める。
「アキレア、わたし、あなたに嘘を吐いていたわ。……、ごめんなさい」
はっきりと声に出してそう言うと、アキレアは不思議そうに首を傾げて羽耳を揺らしていたけれど、次第に合点がいったのか、小さく何度か頷いている。
「ああ、もしかして、本当は声が出るって事ですか?」
「……知っていたの?」
兄と自分以外に、それを知っているのは誰もいない筈なのに。
驚いてそう言うと、アキレアは肩を竦めて困ったように眉を寄せている。
「俺達の一族って耳がすごく良いんですよ。姫様の声に変な雑音が混じっていたからずっと変だなって思ってて、聞いているうちに姫様のチョーカーにつけてる宝石から同じ音がしたから、そういう事なのかな、って」
「ずっと騙していて、ごめんなさい」
それに気づいていながら、何も言わずに自らの声になっていてくれた彼に、申し訳なさが急激に押し寄せてきて、ストレリチアはしゃくりあげて泣き出してしまった。
どうにか涙を止めようとすればする程に、大きな水玉が次から次へとあふれてきて、アキレアの服を斑らに濡らしてしまう。
周囲からは、あーあ、アキレアがお姫様泣かせちゃった、とアキレアの故郷の人々の非難するようで呑気そうな声と、うるさいからあっち行ってて、と彼らを追い払うようなアキレアの声が聞こえるけれど、ストレリチアは涙を止める事すら出来ず、それどころか、ただただ「ごめんなさい」と繰り返しながら、幼い子供のように泣きじゃくった。
落ち着かせるように、とん、とん、と一定のリズムで背中をゆっくり撫でる手のひらは優しく、引き攣るような呼吸をどうにか宥めながら涙を拭うと、彼はストレリチアの頭に羽耳を押し付けて、擦り寄るようにしている。
あんなに悲しくて堪らなかったのに、そんな小鳥のような仕草一つで、思わず、ふふ、と笑みが零れてしまって、ストレリチアは慌てて口元を押さえた。
その様子に気づいたらしいアキレアは、顔を覗き込んでいて。
揺れる視界に、大好きな赤色がしっかりと映っている。
「姫様はそう言うけど、でも、そのおかげで姫様に出会えたんですよ」
それに、と彼は言って、互いの額をくっつけると、綺麗な青空のような瞳で見つめていて。
「姫様が言ったんでしょう? 俺には翼があるから、何処にだって行ける、って。だったら、俺が姫様を何処にだって連れて行きますよ」
そう言うと、アキレアはあまりにも嬉しそうに笑って見せるので、いつかの言葉を、彼はそうして大切にしてくれていたのだ、という事が、何よりも嬉しい、とストレリチアはぎゅうと彼の首筋に抱きついた。
それと同時に、後ろでそろそろと様子を伺っていたらしい有翼人達が、わっと騒ぎながら顔を覗き込んでくる。
「ねえ、この子は愛のうたを歌ったわ!」
「今度はアキレアの番でしょう!」
「さあ歌って! 歌って!」
興奮冷めやらぬ、と言った具合にはしゃぐ彼らの声に驚くが、それよりもストレリチアが気になっていたのは彼らの言っていた歌の事だ。
ストレリチアの歌ったものは愛のうただと彼らは言うけれど、ストレリチアが先程歌ったのは、アキレアがいつも口ずさんでいたあの歌だ。
彼の一族はどんな声でも真似をする事が出来る。
それは、自分の感情を歌にするからだ、と言われている。
それならば、彼があの歌に乗せた気持ちは、つまり。
答えを出せそうになった瞬間に、彼らから引き離されるように抱え直されて、ストレリチアは慌ててアキレアにしがみついた。
「あーもう、うるさい! そんな事してる暇ないだろ! 後で落ち合う場所を決めたの覚えてるだろ、覚えてるならさっさと行く!」
ぎゃあぎゃあと不満を露わにしている鳥達を叱りつけたアキレアは、彼らをその場から飛び立たせると、ふう、と呆れたように息を吐き出している。
あまり見た事のない様子が珍しくて眺めながら、ストレリチアはことりと首を傾けた。
「ねえ、アキレア。さっきの、愛のうたとかあなたの番って、どういう意味なの?」
「ええと、その、俺の故郷では習わしが、あって……」
彼にしてはあまり歯切れの良くない言葉に、ストレリチアは「続けて」と言うけれど、アキレアは口ごもりながら、あくまでもこれは習わしで、自分は故郷を出ているのだし、姫様は何も知らないのだし、あくまでも習わしだから、と長ったらしい前置きをして、咳払いを一つ、拵えている。
「色々あるんですけど、愛のうただけは、特別なんですよ。なんていうか……、その、告白、みたいな意味合いが、あって……」
その言葉に、ストレリチアは夕焼け色の瞳を大きく瞬かせて、アキレアを見た。
髪よりも、羽耳よりも、顔が赤い。
今まで見た事のない彼の様子に、ストレリチアの唇から、吐息混じりの笑みが零れてしまう。
「つまり、わたしはあなたからずっと告白されていたと思っていいの?」
「自覚してなかったので、それはないです」
アキレアはすっぱりとそう言って顔を背け、どうにかごまかそうとしているけれど、ストレリチアは追求するようにその横顔をじっと見つめ続けた。
だって、その言葉の通りならば、自分は全国民、家族も含めた大勢の人々の前で、盛大に彼に告白をしたようなものだ。
いくらなんでも、それをごまかそうとなんてさせるつもりはない。
「あなたの番、という事は、返答をくれる為の歌があるのでしょう? 聞かせてはくれないの?」
ストレリチアが頰をふっくらとさせて言うと、暫く葛藤していたものの、観念したように深く長く息を吐き出したアキレアは、困ったように眉を下げて笑っている。
「心配しなくても、俺の愛のうたは、姫様だけに聞かせますよ」
その答えに、ストレリチアは、楽しみだわ、と思わず彼と自分の頰をくっつけて、声を上げて笑った。
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