第11話 そこにもう隔たりはなく

 気がつくと、彼がいつも口ずさんでいた音を、なぞるように歌っている。

 その事に、ストレリチアは深く長く息を吐きながら、ぼんやりと窓の向こうを眺めている。

 アキレアがストレリチアの元から離れて、もう一月以上が経過していた。

 自らの声が聞こえる唯一の存在を失ってしまったので、ストレリチアはずっと誰とも会話らしい会話をしていない。

 時折この空中庭園を訪れるサンカルーナだけは、ストレリチアの言葉から気持ちを汲み取ってはくれるけれど、やはり声を交わせるという事は特別な事だったのだろう、と改めて痛感させられる。

 その間、婚礼の準備はつつがなく進められていた。

 何処の誰の元へと嫁ぐのかという事も、聞いてはいるのだがとうに忘れてしまい、何もかも手がつかず、ストレリチアは日がな一日窓辺でぼんやりと過ごしている。

 一つだけ開かれなかったカーテンも、今はもうすっかりと開け放たれ、部屋の中は眩しい光でいっぱいになり、揃えられた家具はますます白く見えて、それがまた沈んだ気持ちを陰鬱にさせてしまう。

 城の外では、歌姫の結婚の知らせを聞いた国民達が、何も知らずにお祭り騒ぎをしているのだという。

 その準備の為として歌姫の歌声が聞こえなくなった今でも、彼らは従順に城へと祝福の花を捧げている、らしい。

 声の出せない歌姫が、声を出せずに暇を持て余しているだけ、だとも知らずに。

 窓の外はあふれんばかりの花々が色鮮やかに咲き乱れ、突き抜ける程に高い青空が広がり、眩い太陽が眼を灼くようで、思わず視線を逸らして見つめた部屋の中には、くっきりと自身の影が伸びていた。

 その形ははっきりとしているのに、どうしようもなく頼りなげに見える。

 祝福なんてされたくはなかった、と影から眼を逸らし、そっと目蓋を閉じたストレリチアは思う。

 だって、もしも、わたしがそれを歌うのなら。

 ———それなら、わたしは。


「ストレリチア」


 思考に深く潜り込んでいたせいで、呼びかけられた事に驚いてしまい、ストレリチアは思わず身体を大きく揺らしてしまった。

 慌てて見上げた兄は、困ったような笑みを浮かべている。

 周囲を見回せば、頭を下げた侍女達が部屋を出ようとしていて、そっと息を吐き出すと、微笑みながら彼女達を見送った。

 一体、どれだけ考え込んでいたのだろう、とストレリチアは緩く頭を振り、ごめんなさい、と改めて兄に顔を向けて謝った。

 あの日以来、サンカルーナは時間を見つけてはストレリチアの様子を見に来ている。

 いつもならば嬉しい事であるけれど、今ばかりはどうしても気持ちが沈み込んでしまい、ストレリチアは上手く会話が出来なくなってしまう。

 だって、ここにはわたしの声を聞いてくれる人はいないのだもの。

 気がついたらそんな子供じみた言い訳を言ってしまいそうで、ストレリチアがぎゅうと眉を寄せ、唇を噛み締めると、サンカルーナはゆっくりと頭を優しく撫でてくれている。


「お前の小鳥は、ちゃんと飛び立てたよ」


 その言葉に、ストレリチアは思わず両手を強く握り締めた。

 アキレアがこの場所から出て、歌姫の声としてではなく彼本来の姿でいられるのなら、きっとそれは自由と呼べるものである筈なのに、どうしても、素直には喜ぶ事が出来ない。

 最後までちゃんと騙してみせるから、残り僅かな幸せを、この手から奪わないで欲しかった。

 そんな自らの気持ちを、深く長く息を吐き出す事で誤魔化しながら、ストレリチアは静かに頷いた。

 王である父はきっと、歌姫の秘密を彼がきちんと守るよう、それなりの金銭を渡しているだろう。

 それならば、以前のような酷い生活をする事もなく、新しい場所でも上手くやっていけるに違いない。

 それなのに、どうしてだろう。

 まるで、置いていかれた子供のように、人目を憚らずに今にも泣き出してしまいたく、なる。

 アキレアがこの空中庭園からいなくなったあの時、行かないで、置いていかないで、と泣き叫んで、手を伸ばせばよかったのだろうか。

 考えても今更どうしようもない事ばかりが頭の中を犇めいていて、最後まで騙してみせると覚悟していた筈なのに、本当にこの手のひらの中のもの全てを失ってしまうと、途端に脆くなる自身の性質に辟易する、とストレリチアは首元の真っ赤な宝石を握り締めてしまう。

 温もりを感じない、硬質的な感触。

 今まではこの感触を支えのようにさえ感じていたのに、と考えていると、サンカルーナは静かに唇を開いていて。


「さあ、ストレリチア。今度はお前の番だ」


 一体どういう事だろう、とぼんやりと兄を見つめても、彼は決して答えてくれる事はない。

 そうして、ストレリチアが握り締めていた手のひらをどかし、首からそっと真っ赤な宝石のついたチョーカーを外している。

 あまりに突然の事に驚き、見上げた兄は、ただ静かに、何故だかとても淋しそうに笑って頷いている。

 今まで守るように覆われていた首の周りはすうすうとして心もとなく、酷く落ち着かない。

 怖い、とさえ思いそうになってしまう自分自身に気づいて、ストレリチアはすっかり自分がこの場所で飼い慣らされている事を理解してしまい、ぎゅうと両手を握り締めた。

 怖い。

 怖くて堪らなく、なる。

 けれど、それよりも本当に恐れるべきは、全てを諦めて、罪悪感でいっぱいになっている、自分自身ではないか。

 ストレリチアは考えて、固く握り締めていた手のひらをそっと開いた。

 アキレアは自分の力で飛び立てたのだ、と兄は言う。

 わたしは、その力を彼から与えられたのだ、とも。


「一つでは上手く飛べないのは当たり前だ。二つ揃えなければ、翼とは呼べないからね」


 その言葉に、どういう事ですか、と問い掛けようとして、ストレリチアは慌てて口を手のひらで覆った。

 息を吸い込む瞬間の、その感触がとてつもなく生々しく、思わず怯えてしまう。

 その様子を見たサンカルーナは、励ますように肩に手を置き、誰にも聞かれぬよう、ストレリチアに耳打ちをする。

 告げられた言葉に、夕焼け色の瞳を瞬かせて顔を上げると、サンカルーナは確かめるように頷いてくれて、いて。


「信じなさい。お前には、その力があるのだから」


 大丈夫、と言われて、ストレリチアは駄々を捏ねる子供のように頭を振った。

 突然そんな事を言われても、どうして良いのか、自分にはわからない。

 アキレアは、一体、どんな気持ちで此処を出て行ったのだろう、とストレリチアは泣き出しそうになりながら、ドレスの裾を握り締めた。

 視界の隅で、ふわりとカーテンが揺れて、風に遊ばれて自由に裾をはためかせている。

 その先にある、見慣れた色鮮やかな花々と、庭園に設置された舞台は陽光に照らされて明るく、目蓋を閉じれば、差し込む光の為に、裏側には赤色が広がっていた。

 わたしの、一番、好きな色。

 大丈夫、そう言われている気がして、ストレリチアは兄を見た。

 踏み出す事を躊躇わないようにだろう、兄は優しく笑うと確かめるように頷いて、背中を押してくれている。

 初めは恐る恐る、けれど、一歩一歩歩みを進めているうちに、不思議と気持ちは軽くなっていて、気がつけば、足は自然と庭園へ抜けて、舞台へと駆け出して行く。

 ストレリチアは靴を脱いで放り投げると、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。

 あまりの勢いの為に咳き込んでしまい、涙目になりながらも、自らを鼓舞するように、無理矢理唇を引き上げる。

 声は掠れ、呻くような声が、吐き出されて、いて。

 久しぶりの感覚に、胸の底が震えている。

 ああ、なんて、心地いいのだろう、とストレリチアは心の底から思う。

 それと同時に、胸が押し潰されそうに、なって、しまう。

 一体、どれだけの人を騙して、傷つけてきたのだろう。


(それでも、わたしは——)


 胸元を握り締めたストレリチアは、息を吸い込み、精一杯に声を響かせた。

 空中庭園から響き渡るのは、声を出せない筈の、ストレリチア本人の歌声だ。

 婚礼の準備の為に、聞く事が叶わないと知らされた街の人々からは歓声が上がり、城の中にも騒ぎが広がっている。

 けれど、ストレリチアには周囲の事など僅かも気にはならない。

 その唇から零れるのは、いつもアキレアが口ずさんでいた歌だ。

 甘やかで優しくて、僅かな淋しさと、胸にほんのりと残る、ほろ苦さ。

 そんな風に感じられたあの歌は、いつも側にあって、この耳に、この胸の中に、それどころか、ストレリチアの身体中に残って、離れてはくれなかった。

 想いを言葉にして、言葉を音に乗せて、ただ彼の事だけを想いながら、ストレリチアは歌う。

 こんなにも、こんなにも、自分の中にある気持ちを吐き出せる事が、嬉しくて堪らなく、思わず泣き出しそうになってしまう。

 だって、わたし、あなたの為なら何だって捨ててみせるのよ。

 この先の未来を、この生命を、全て捨てたって構わない。

 だって、あなたに祝福を届けるのは、わたしでありたいの。

 それを、どうか、信じて欲しい。

 歌えない筈の歌姫の声が聞こえたからだろう、息を切らしながら慌てて駆けつけたらしい、父や母が部屋に入ってくる気配を背後から感じるけれど、ストレリチアは僅かも動揺する事もなく、歌い続ける。

 侍女や臣下達も揃ってここにいる今、彼らはストレリチアを止める事も、何故声が出るのかと問いかける事も、出来やしない。

 何とも言えない表情を浮かべた彼らを、横目で眺めながらにストレリチアは微笑んで、胸に手を当て、透き通る歌声を遠くまで響かせた。

 この声は、きっと彼に届く。

 そう信じているから。

 最後の最後まで大切に発した一音が、優しく空に溶けていくのを確かめてから、ストレリチアはドレスの裾を持ち上げ、深くお辞儀をする。

 そうして軽やかに舞台の手摺へと近づいていくと、高い場所であるから、手摺に触れようとすれば、強い風が吹きつけてきて、身体ごとなぶられるようで、思わずぎゅうと眼を瞑りそうになってしまう。

 それでも、ストレリチアは意を決して手摺を握り締め、そこに膝を乗せると、よろめきながらも立ち上がった。

 ひたりと手摺についた素足は、裏側から凍えそうなほどに冷めたくなっていく。

 風の音はごうごうと耳に痛く、地面さえ見えない高さへの恐怖から、じわりと染み込んだ水分でいっぱいになった視界は揺れる。

 侍女達の騒ぐ声や、王や妃の驚いた顔が見えるけれど、ストレリチアは顔を上げて、鮮やかに笑ってみせた。


「お父様、お母様、どうかお許し下さいね」


 ストレリチアの唇から零れるはっきりとした声に、表情を固まらせていた父母は、更に驚愕した顔をしている。

 声が出せなくなった筈なのに、どうして、と思っているのだろう。

 兄が自分にくれたチョーカー、それにつけられた真っ赤な宝石には、まじないが施されているのだ。

 身につけている間、声が出なくなる、という、まじない。

 アキレアにさえ告げていない、その事実を知っているのは、兄と自分の二人だけ。

 それは、歌姫としての役目を果たせなくさせる為の、唯一の方法だった。

 そうすれば、ストレリチアは歌姫ではなくなる、と信じていたから。

 けれど、その希望を打ち砕いて、王達はアキレアをここに連れてきた。

 だから本当は、この空中庭園を出るまでは、皆を騙していようと決めていたのだ。

 せめて、その間だけなら、彼が側に居てくれると思っていたから。

 でも、と、ストレリチアは震えを隠すように両手を握り締める。


「わたしにはもう、翼があるのです。此処から飛び出す為の翼を、わたしは手に入れたのです」


 手も足も、無様にかたかたと震え、身体が揺れてしまいそうになるけれど、懸命に踏みとどまりながら、ストレリチアは言う。


「わたしの歌は、この国の為でも、顔も知らない国民達の為のものでもありません」


 わたしの歌は、ただひとり。

 わたしの小鳥の為にあるのだから。


 そう言って、ストレリチアは鮮やかに笑って爪先を蹴り、空中庭園から飛び降りた。

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