第10話 遠く見える雲の切れ間へと

 その日は雲が空を覆い隠してしまうような、薄暗い日だった。

 王と妃、そして臣下達は空中庭園に辿り着いた方舟から仰々しく並んでストレリチアの私室へと向かっていて、その足音に、アキレアは酷く胸騒ぎを覚えていた。

 常ならば、彼らは決まった時に、それも何日も前から訪問をする旨の連絡を入れない限り、此処を訪れる事はない。

 けれど、今日は何故だか、事前の連絡もなく此処を訪れているのだ。

 王達と顔を合わせる際、ストレリチアは決まって窓際に寄りかかりながら全身を強張らせ、緊張感でぴりぴりとした空気を纏っている。

 追い詰められながらも懸命にその身を守っているかのような、それは、人買いの所にいた自分自身を見ているようで、アキレアは思わず視線を逸らしてしまう。

 何か一言でも声をかけなければ、と思うのに、そうした時ばかり言葉は上滑りして、上手く声にはならない。

 ストレリチアの声になる事だけしか、自分に出来る事はないのだ、と思い知らされてしまう。

 ぎゅうと手を強く握り締めると、彼女が小さく息を吸い込む音がして、アキレアは視線を上げた。

 強張った顔つきで、それでも気丈に笑いながら、大丈夫よ、とストレリチアは言う。

 大丈夫。

 まるで自分自身に言い聞かせているかのような言葉は、けれど、どちらの気持ちも軽くはしてくれない。

 アキレアがぎこちなく笑って頷くと、部屋の扉が開かれて、王達が中へと入ってくる。

 侍女達の前では顔を出さないアキレアも、王族の前では必ず姿を現さなければならず、ストレリチアの後ろで深く頭を下げた。

 皆に楽にするようにこやかに告げる、王のすぐ側にはサンカルーナもいたのだけれど、その表情はいつもと違い、強張ったものだった。

 それが、今のこの状況がどんなに悪いものなのかを、明白に示している。

 血の気が引いていくように、頭のてっぺんから順番に、体温が抜け落ちていく。

 胸底はじりじりと煮え滾るようで気持ちが悪く、指先は微かに震えが走る。

 そうして、王は言う。

 ストレリチアの婚約が決まった。

 マイラステラが次代の歌姫となる、と。

 あまりに突然の事に、どうして、と声にならない言葉が口の中で転がっている。

 サンカルーナの娘であるマイラステラは、まだ十歳には満たない。

 歌姫になるにはまだ幼すぎる筈だ。

 アキレアが慌ててサンカルーナへ視線を向ければ、彼は顔を歪めたまま、静かに首を振っている。

 王の話を聞く限り、ストレリチアの婚約を決めたのは、相手側がこの国で絶大な人気を誇る歌姫を娶れると知って乗り気だったからだろう。

 婚姻を引き伸ばし、ストレリチアが声が出せない歌姫などと知られてはたまらない、と王は一刻も早くストレリチアを嫁に出そうと考えたに違いない。


「お前にも長い間大変な思いをさせてすまなかったな」


 優しげな表情を浮かべて王は言うけれど、アキレアは全身の血が沸騰してしまいそうな程に怒りを感じていた。

 彼らは、ストレリチアを此処に縛り付けておきながら、彼女の気持ちを少しも慮る事もない。

 視界の隅に映るストレリチアの指先は、強く握り締められ真っ白になり、震えている。

 それを見た瞬間、思わずアキレアは息を吸い込み、顔を上げて王へと口を開いていた。


「陛下、ですがっ、」

「アキレア」


 酷く落ち着いた呼びかけられ、アキレアは真っ青な顔で、その声の主——サンカルーナを見た。

 口元に薄く笑みを浮かべてはいるが、その眼はストレリチアによく似た夕暮れ色である筈なのに、あたたかみを感じる事はなく、まったく笑っていない。

 何て冷たい眼をしているのだろう、とアキレアはぞっとする。

 思わず黙り込むと、彼はアキレアの側へと近づき、背中を優しく撫でている。

 その動作で、彼の言わんとした事が知れてしまった。

 此処で自分が何を言ったとしても、状況が悪化するだけなのだ、と。


「失礼致しました、父上。彼もあまりに突然の事で驚いたようです」


 サンカルーナがそう言うと、王は少しも気にする事なく、にこやかに頷いている。

 こちらの気持ちなど、ほんの僅かも感じないかのように。

 そう見えるだけ、なのかもしれないけれど。


「いや、それもそうだろう。お前には随分と世話になったから、褒美は沢山与えなければ」

「それは私の方から話しましょう」

「ああ、頼むぞ」


 そう言ったサンカルーナに背を押され、アキレアは部屋の外へと促された。

 縋るように彼を見るけれど、その横顔は感情を押し殺したように表情を消している。

 強く唇を噛み締め、彼に従って扉の向こうへと足を向ければ、背後から耳をつんざくような、大きな物音が響いていた。

 振り向けば、中央に設置されたテーブルに置かれたグラスを、床へと叩き落としているストレリチアの姿が、ある。

 長い髪に隠され、その表情は見えない。

 けれど、その異様な光景に、誰もが黙り込み、固まってしまう。

 その後も、彼女はテーブルに置かれた食器類、金の装飾が美しい手鏡、気に入っていた筈の陶器の小物入れさえ、次々と叩きつけていく。

 部屋の中は悲鳴のように甲高い音が響き渡り、割れて鋭利になった破片が、辺り一面に散らばっている。

 それは、泣き叫ぶ事の出来ない彼女の叫びだ、とアキレアは思う。


「ストレリチア、やめなさい!」


 我に返った王や妃の声に、周囲の人間達も漸く状況を把握したのか、ストレリチアを必死に止めている。

 人々に囲まれる彼女は、決してアキレアを見ようとはしなかった。

 悲痛に歪んだ顔で、助けを求めるように泣いているのに。

 自分だけにしか、彼女の声は聞こえないのに。

 こんな時に限って、彼女は、助けを求めて声を上げたりはしない、のだ。

 乾ききった喉は音を発する事も出来ず、アキレアは震える手を伸ばそうとしたけれど、サンカルーナはそれを緩やかに止めて、扉の向こう側へとアキレアを押し出した。

 肩を押す手は、痛い程に力強く握り締められ、その横顔は怒りに満ちている。


 *


 空中庭園から出て城の奥へと連れて行かれたアキレアは、長い廊下を進むサンカルーナの後ろを、俯きながら歩いていく。

 隣には彼の従者であるティニーユーがいるが、耳をすまして周囲にあまり人がいない事を確認したアキレアは、どこまで連れていく気なのかと眉間に皺を寄せながら、掠れた声で彼に問いかけた。

 ティニーユーは何も言わず、伺うように自らの主人に視線を向けている。

 それに気づいているようだけれど、周囲に悟られない為だろう、サンカルーナは決して振り向かず、低い声で言う。


「お前の役目はここで終わりだ。これ以上何か言えば、この国の秘密を知っているお前は一番に処分されてしまう」


 つまり、何事もなかったかのように振る舞って外へ出て行け、という事だろう。

 王の前では何か説明があるなどと言っていたけれど、やはり厄介払いをしたいだけか、と唇を噛み締めたアキレアは、廊下の奥にある広い部屋に通された。

 ストレリチアの私室より少し広い部屋の中は、穏やかな緑の色彩で揃えた家具やテーブルセットが置かれている。

 誰もいない事を確認し、扉が閉められた瞬間、アキレアは勢い良くサンカルーナの胸ぐらに掴み掛かるかのように腕を伸ばした。

 すんでの所で止めたのは、ティニーユーだ。

 力を込めた腕はきつく握り締められ、拮抗する力に、アキレアと彼、どちらの手も震えている。


「どうしてあの時、止めて下さらなかったのですか!」


 手を振り払い、悲鳴のように叫んだ声に、ティニーユーの顔が悲痛そうに歪むのに対し、サンカルーナは普段の笑顔など欠片も見せない程に表情を消していた。


「父上はこの国の王だ。この国の全ての決定は、王にあるのだよ」

「だからって……っ!」

「これでお前は晴れて自由の身だ。どんな所にでも飛び立てる」


 ストレリチアと同じように言う彼に、思わずアキレアは大声で喚き散らし、叫びたくなる。

 どうしてそんな風に諦めてしまうのか、どうしてそうやって自分を遠ざけて傷つこうとしてしまうのか、どうして自分にだけは助けを求めてくれないのか。

 言葉にしてもどうしようもない事ばかりを吐き出して叩きつけてしまいたいのに、どうしても声にはならず、震えた息だけが口から零れていく。


「けれど、ストレリチアは違う。あの子はどんなに願っても、歌姫という役目から、この国からは、逃げられない」


 決してそれだけは叶わないのだ、と言い聞かせるような言葉に、アキレアは手のひらを強く、爪が皮膚に食い込む程、ひたすらに強く握り締めた。

 そんな事やってみなければわからない、と言い返したいのに、アキレアは確かに理解している、のだ。

 彼女を助ける為に自分が出来る事など、彼女の声の代わりを果たす事だけなのだ、と。

 何の力もない、飛び立つ為の翼は、生まれた時から持ち得ていなかったのだから。

 それは、故郷にいる時から、痛い程に感じていた事だ。


「だから、お前が飛び立つのだよ」


 そうして、突然告げられた言葉に、アキレアはのろのろと顔を上げて、彼を見た。

 その瞬間、ストレリチアが言ってくれた言葉を、ぼんやりと思い出す。


『いいじゃない。小さくたって、羽だもの』

『きっとそれは、あなたには飛び立てる力があって、何処にだって行く事が出来るっていう、証なのよ』


 それを、彼女は、そして、目の前にいる彼は、信じているのだろうか。


「その為に、お前にはその羽があるのだから」


 羽耳を指差され、アキレアは思わず泣き出しそうな気持ちになって、慌てて頭を振った。

 だって、こんなものは何にもならない。

 異質で歪で、何処にも行けない、何にもなれない自分の象徴みたいなものだ。

 この場所で、ストレリチアの側だけで、自分は必要としかされていなかった。

 それなのに、今更、彼女の為に、何も持たない自分に何が出来ると言うのだろう。

 そう、子供のように泣き言を零すと、サンカルーアはアキレアの両肩を掴んで、しっかりと視線を合わせた。

 揺れる視界に見えるのは、ストレリチアとよく似た、優しい夕暮れの、いろ。


「ストレリチアを助けたいのなら、立ち向かいなさい」


 その言葉に、瞳を揺らしたアキレアは、その意図を掴みかねて、首を傾げた。

 一体、何を、言っているのだろう。

 ぼんやりとして鈍くなってしまった思考回路で、ゆっくりと、彼の言葉を頭の中で、繰り返す。

 立ち向かうというのなら、それはきっと、逃げてしまった自分自身に、だ。

 一体、何を欲していたのか、何から、逃げていたのか。

 その答えに、は、と弾かれるように顔を上げれば、サンカルーアは静かに頷いてみせる。


「それだけの想いを、見せてみなさい」


 きっと、彼ら・・は応えてくれるだろうから。

 そう言って、サンカルーアは自らの背後へと声をかけた。

 顔を出したのはティニーユーで、外套を身に纏ったその姿は、何かから隠れる為のように見える。


「ティニーユー。わかっているね」

「勿論です。後は手筈通りに」

「頼むよ」

「はい!」


 にっこりと笑顔を向けたティニーユーに手を引かれ、アキレアは慌ててサンカルーナを見た。


「サンカルーナ様」


 呼びかけに、彼はストレリチアに向けるものと同じ眼差しを向けている。

 彼女の境遇を誰よりも憂い、心から心配して、自分に出来る事を、彼はしてくれていたのだ。

 それがはっきりとわかって、アキレアは深く頭を下げた。


「俺、絶対に姫様をあの場所から連れ出します」


 視線を合わせ、しっかりと頷いた彼にもう一度頭を下げて、アキレアは扉を開いて走り出していた。

 振り返らずに、真っ直ぐに。

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