第9話 心は流れる五線を携える

『ねえ、起きているのでしょう? 歌が聴きたいの』


 ストレリチアがいつも過ごす私室のすぐ隣にある、簡素なベッドが置かれただけの小さな部屋は、そもそも倉庫として使用していた場所を片付けて、アキレアが眠る為だけに作られた部屋だ。

 牢獄にも似た堅牢な造りに嫌気が刺す事もままあるけれど、奴隷同然の生活を強いられてきたアキレアにとっては、小さいながらも自分だけの部屋を与えられたという事は、とびきり嬉しいものだった。

 石造りの壁にはささやかに棚が取り付けられ、そこにはストレリチアから与えられた従者としての衣服などを、丁寧に収納している。

 あなたはわたしの声なのだから、丁重に扱われるべきだわ、とストレリチアは言い、本来ならば下働きの者のように粗末な生地で作られるだろう衣服でさえ、一度も触れた事のないような上等のものを用意するのだ。

 はじめこそあまりの価値観の違いに苛立ちも覚えたけれど、彼女はそれしかアキレアに与えられるものがない、と思っているのだろう。

 自分の為に犠牲になる全てに、彼女は深く傷付き、罪悪感を覚えている。

 彼女は歌姫である前に、ただの少女でしかないのだ、というのは、三度ノックしてから開けた扉の隙間から顔を出し、薄いレースを何枚も重ねたようなナイトウェアの裾を揺らした彼女の顔を見ればよく理解出来る、とアキレアは思う。

 いっとうお気に入りという理由からか、これから眠るというのに赤い宝石のついたチョーカーを肌身離さず身につけ、肩からかけたストールをぎゅうと握り締めながら、眠れないの、と言うストレリチアは、叱られた子供のように眉を下げていたから。


「姫様、今は夜ですよ? 姫様は知らないかもしれないですけど、夜は寝る時間なんですよ?」

『馬鹿にしないで。わたしだって、それくらい知っているわ。仕方ないでしょう、眠れないのだもの』

「昼間にぐうぐうと寝ているからですよ。絶対に眠れなくなるから起きて下さいって、散々俺が注意をしたのに」


 人の言う事を聞かないから、と呆れた様子のアキレアは、倉庫に等しいこの部屋にストレリチアを滞在させる事は如何なものかと考えて、ストレリチアを自室にまで戻しながら、ベッドへと連れていく。

 まるで子供扱いをしているようではあるけれど、ストレリチアは途端にご機嫌になって、楽しそうにベッドの上へと身を沈み込ませていた。

 まるで甘えるような、無防備な笑みを浮かべるものだから、アキレアは溜息混じりに笑ってシーツを丁寧に彼女の上へと被せ、子供にしてやるように、とん、とん、と一定のリズムでやわらかく叩いてやる。


「それじゃあさっさと寝ましょうね。よーしよし、いいこいいこ」

『少しくらい良いじゃない。わたし、あなたの歌を聴くのが好きなの。わたしの声じゃない、あなたの声で歌って欲しいの』


 茶化しながらも寝かしつけようとしている様子に気づいたらしいストレリチアは、シーツの中で身を捩らせると、眉を寄せて困ったような顔をした。

 明日も明後日もそれからも、彼女は歌姫としての役目をこなさなくてはならない。

 早朝にこの部屋から続く舞台に立ち、国民達の為に歌を歌う、演技をする。

 そして、アキレアはその声の代わりを果たす。

 だからこそ、きちんと眠らなくてはいけないというのも、アキレアを夜更かしに付き合わせてはいけないというのも、理解はしていても、彼女は時折、こうして我儘を言うのだ。

 それが、誰でもない自分にだから、というのなら、嬉しい事ではあるのだけれど、とアキレアは頬杖をつきながら小さく笑う。


「はいはい、わがままお姫様の従者さんは何を歌えばいいんでしょうか?」

『そうね、あなたがいつも口ずさんでいる歌がいいわ』


 あの歌はどういう歌なの、と問いかけられて、アキレアはぱちぱちと瞬きを繰り返した。

 口ずさんでいた、と言われても、それが一体何なのかを、すぐには理解出来なかったからだ。

 アキレアの一族にとって、歌はコミュニケーションの一部だ。

 喜び、怒り、悲しみ、楽しさ……、感情全てを歌で表現し、他者へ伝える。

 だとしたなら、それはアキレアの感情の一部なのだろう。

 故郷から遠く離れた場所まで来てしまったというのに、その習性だけはこの身に染み付いているのだと思い知らされて、アキレアは僅かに動揺し、視線をうろつかせた。


『もしかして、覚えていない?』


 問いかけに、アキレアがこくんと頷くと、ストレリチアはゆっくりと笑みを浮かべて、息を吸い込んだ。

 そうして部屋の中に響く、彼女の歌声は決して音にはならないけれど、アキレアの耳には確かに届く。

 比べるべきもない、彼女の歌声は確かにそっくりそのまま、息遣いでさえをも同一のものであるように似せているのに、自分では決して奏でる事の出来ない、彼女だけの声だ、とアキレアは思う。

 自分にだけしか聞こえないその声を、聞き逃す事のないようじっと耳を傾けると、声に異常をきたしているからだろう、時折混ざるノイズがあるものの、彼女は確かに歌姫と呼ばれるべき才能を持っていて、透き通る歌声は伸びやかで柔らかく、音が消える瞬間の、終わりの響きまでも、綺麗。

 彼女がなぞるやわらかなその音階は、アキレアさえ気づかなかった、想いの欠片だ。

 甘やかで優しくて、僅かな淋しさと、胸にほんのりと残る、ほろ苦さ。

 はあ、と溜息を吐き出して、アキレアはずるずると顔をベッドに押し付けた。

 肌触りのいいシーツは、石鹸と花の香りがする。

 そんな歌なんて知らない、と言って逃げ出してしまいたい。

 けれど、それが出来ないのは、その想いを否定したくはないから、で。


『アキレア? 大丈夫?』


 おずおずと顔を覗き込んでくるストレリチアの眼は、薄暗い室内であっても、優しい夕暮れを思わせる色をしている。

 心配そうな、顔。

 歌に関する事だから、きっと故郷を、嫌な記憶を思い出させたのではないか、と思っているに違いない。

 アキレアは小さく笑うと、ふるふると頭を振って頷いた。


「それ、子守唄、ですよ。姫様みたいに夜に寝ようとしない、しょうもない子供を寝かしつける歌です」

『絶対に嘘でしょう』

「さあ?」


 子供のように不貞腐れ、顔を背けたストレリチアに、アキレアは思わず息を吐き出して笑った。

 問いかけに答える気がないと悟ったのか、彼女はそれ以上追求はせずに、ぽつりぽつりと先ほどの歌の欠片を口にして、緩やかに瞬きを繰り返している。

 その睫毛の先の震えをアキレアがぼんやりと見つめていると、ストレリチアはことりと首を傾けて視線を向けていて。


『ねえ、その歌は、詩がついていないの?』

「……、覚えていないんです」


 すみません、と珍しく殊勝な言葉を吐いてしまったからか、ストレリチアは申し訳なさそうに視線を俯かせ、押し黙ってしまった。

 明日に障りますからもう寝ましょう、とアキレアは言って、幼い子供にでもしてやるかのように、彼女の額を骨に沿って優しく撫でてやる。

 心地良さそうに細めた瞳が眠気に耐えきれず、ゆっくりと目蓋を落とそうとして、いて。

 安心しきっているその姿に、アキレアは思わず、先程まで彼女が歌っていた歌を、口ずさむ。

 甘やかで優しくて、僅かな淋しさと、胸にほんのりと残る、ほろ苦さ。

 どうか、この音だけでも、ずっと彼女の側に在れますように、と祈るように音を紡ぐ。


『いい歌ね。あなたの声が、よく似合う歌だわ』


 微睡みながら、ストレリチアが柔らかく笑って言うので、アキレアは困ったように笑っていた。

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