第十五話 次なる旅路と川屋

『湯治の旅に出ましょう、一月ほど』


 とは奥方が申せども、本来そう軽々しく仇討ち旅の途上に差し挟めるものではなかった。

 仇討ち旅は雪代家と忍び里の手厚い支援に支えられているが、つまり出資者と支援者それぞれに言い訳が立たなくては「温泉旅行でサボりたい」なんて話は通らない。


 ウコンと奥方のふたりの間では「仇討ち旅をサボる」という悪巧みが合意されていても、旅仲間でもある銀狐のサコンにはナイショのことだ。


 全体の日程を大いに狂わせる『湯治』を実行するために、ウコンは布石を打ってあった。

 長首の竜魔との戦いにおいて、敵味方を欺いた『血糊衣の術』だ。

 表向き、奥方は名誉の負傷をしたことになっており、サコンは幻術だと知っているのだが。


「えー? 仮病を使ったことを隠したい……?」


「湯治に赴き、傷を癒やしにいけば血糊衣の術を見破られずに済む。逆にだ。手傷を負っているはずなのに元気そうに順調に長旅をつづけてしまってはウソがバレてしまう。我らの任務は仇討ち旅の成就なれど、それは依頼者たる雪代家の名誉を守るためでもある。依頼人に不利益を与えることがあっては出世や報酬に響くだろう?」


「ウソつきは泥棒のはじまり、というけど……?」


「ウソつきは忍者のはじまり、ともいうだろう」


「初耳、それ初耳! は~、そん代わり、湯治場選びはこっちでやらせてもらうからねー」


 サコンは渋々と二つ返事で承諾する。

 そういうわけで、二ヶ月間の旅路が早くも一ヶ月ほどおまけして長引く流れとなった。




 そして選ばれたのは隣のご領地にある湯治場、シカメ温泉郷であった。

 シカメとは鹿女と書く。

 湯治場への道のりはゆったり歩いて二日ほど、無理なく足を運べて評判もよいとのことだ。

 ウコンと奥方は道中さしたる支障もなく、山から山へと宿場町を渡り歩いた。


「湯はいずこ紅葉ふみしめ鹿女川」


「奥方様、それは?」


「秋口に鹿女温泉をたずねる人々の俳句だそうよ、開湯伝説として牝鹿が云々というのも聞いているわね、隣のご領地の名所でも私が聞き及んでいるくらいには有名だわ」


「奥方様は温泉がお好きでございますね」


「雪代家にも縁の古い湯治場があってね、うちは竜魔狩りのお役目をこなす家柄、なにかとお世話になりやすいのよ。父上も母上も叔父上も兄弟姉妹も、一族みんな温泉は好きかも」


「なんだか想像するだに面妖な絵面でございますね……」


 湯けむり立ち昇る露天風呂に、芋を洗うように多数が浸かる白虎一族をウコンは思い浮かべる。

 面妖でほんわかした絵面なれど、領国最強の一族が勢揃いとあっては他の入浴者は生きた心地がしないやもしれない。もっとも、まずもって家老職の武家と一般人が同席することはないか。


「さぁ、湯治でくつろぐためにも今は山越えですよ奥方様」


「ああ、行けども行けども山ばっかり……。おなかがすいたわ、ウコン」


「お弁当は見晴らしのよいところに着くまで我慢してください」


「がぅーん」


 ふたりはのどやかに春の山々を歩く。

 とりとめもなく、他愛ない雑談を交えてのんびりと歩く。


 もし、こうした奥方とのやりとりが退屈ならば、ウコンは旅を長引かせたいとは思わないだろう。


 旅は道連れ、世はなまけ。


 願わくば、仇討ちという本願を果たすその時までは、平穏無事の旅路をこうして過ごしたい。

 道すがらのお地蔵様にちいさなおむすびをお供えし、ウコンはそう神仏に願った。



 

 閑話をひとつ。

 旅行にあたって不可避の悩みは、食事と睡眠だけではない。用便もまた避けがたい話だ。


 もっとも、興味がなければここは省いて構わない無駄話である。


 当世、街道を往来する数多の人々や牛馬がいるということは、街道には必ず、糞尿の問題がついてまわる。そこらの茂みですればよい、等というのはこの時代この国では文化的な発想ではない。


 では、どうやって旅人は用便しているのか。


 まず身分の高い者について。


 じつは二里、三里ごと(約4-8kmごと)に休憩小屋が路端に設けられているのである。こうした休憩小屋は近隣の百姓により提供される。(※我々の感覚でいえば、高速道路のサービスエリアみたいなものといえる)


 大名や貴人は近隣の庶民にとっては旅費として大金を落としていく貴重な存在なので、これに限らず優遇され、公費でなくとも私費で設備投資を惜しまなかったわけである。


 そして庶民について。


 これもまた質は落ちるが、庶民にも百姓が設けた路端の便所があり、用を済ますことが出来た。

 しかも女性用の場合、なるべく小綺麗に便所が作ってあるのだ。


 その理由として糞尿は肥料のもとになり農作では重宝がられる資源につき、百姓は自ら競って便所を作っては使ってもらっていたというわけだ。

 とりわけ、旅人はよりよい食生活を送っているものが多い傾向にあるので、農民のより高価値だとみなされていた。


 道行く馬の落とす馬糞についても価値があり、百姓の子供は、道に落ちている葉っぱや木の実、捨てられた草履などの道具、そして馬糞などを集めては田畑に役立てるのだ。

 こうして街道は清潔に保たれて、田畑の土は肥え、農作物は実るというわけだ。


「――というのは整備の行き届いた平原の街道での話にございます。奥方様におかれましてはここはひとつ観念して、野に還すがよろしいかと」


「ううううう、なりません! 私には尊厳というものがあります!」


 早い話、山中の道では手近な厠(かわや)が見つからないのである。


 されとてずっと我慢するわけにもいかず、奥方は腹痛に耐えながらふらふら歩いていた。

 滑稽ながら笑い事ではなく、それにともすれば命の危険に関わりかねない状況でもあった。


「うう、このような時は小川を探さなくては……」


 奥方は虎耳を澄ませて、川の音を頼りに青ざめたまま歩いていく。


「しかしどうして川を」


「厠というのはね、川の上に屋を建てて“御不浄”に使っていたことが由来なのよ。うぐぐ」


「なるほど、昔は肥料に再利用する仕組みがなく、川に流していたと。昔の人にもし、奥方様の御不浄は高く値がつきますといったら信じてもらえないわけですか」


「川や、川やいずこ……!」


 そうしてようやく小川を見つけた奥方は一難を脱したのである。

 無論、護衛のウコンはこうした無防備な時にこそ、そばを離れることはない。


「奥方様、こちらの紙を」


 旅の必需品のひとつ、古紙をウコンは差し出した。古紙は使用済みの墨に濡れた紙を叩いて漉いた再生紙であり、厠に限らず、あらゆる用途で重宝するものだ。一枚一文が相場で、そばの値段は十六文といえば小さいながら無駄遣いしづらい値段だ。


「はぁ、死ぬかと思ったわ」


「竜魔の端くれに襲われた時もかくやというご様子でございましたね」


「ごめんなさいねウコン、こんなことに付き合わせて」


「いえ、私は奥方様のお世話役ですので、世話に例外はありません」


 そうウコンが答えると、奥方は二重三重に恥ずかしげに顔を背けては「うー」とうなった。

 今、余計なことを言えば噛みつかれかねない。


「ところで川を厠にするのは他にも意味がある、というのはウコンはわかっているでしょう?」


「ええ、狐ですから」


 ウコンはすんと鼻を鳴らす。狐の、ややほっそりとした鼻先をひくつかせた。

 ケモノビトは原種に近しい特徴を有する。


 したがって、犬や狐のケモノビトは嗅覚に優れており、虎の奥方よりも分析力が高い。

 ただし、それらの特徴は原種には少々及ばず、ウコンも野生動物の狐には嗅覚では劣るはずだ。


「なんであれ“痕跡を残す”ということはケダモノや追手に手がかりを与えることになります。実際、わたくしは忍者として嗅覚を活かす訓練を受けておりますので、こうして川に流されでもしなければ追跡手段として有用です。……望んで嗅ぎたくはなくとも」


「私も、それゆえ野外では気をつけるようにと習いました。健康状態を知ることもできるから、殿様ともなると御不浄についてお医者様が記録なさるとも聞くわ」


「追手はさておき、犬狼のように匂いを辿る竜魔が山々に潜んでいないとは限りませんしね」


 等と、ウコンは高尚な話にすりかえることで気まずさをごまかした。


 ――今のは建前の話である。

 本心としては高貴で美しい奥方のあられもない一場面に立ち会えて、ウコンは少し嬉しかった。


(サコンにはああいう恥じらいがないからな……)


 回顧する。

 山中、ウコンが不意に催した時いかにサコンのアホが叫んだかを。


『ウコン、ウンコ?』


 この時、サコンの腹部へ痛烈な掌底を浴びせたことで、ウコンは一撃必倒の極意を掴んだ気がした。

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ケモ奥方は仇討ちをあきらめたい ~ぐーたら忍者と最強武家一族の未亡人が往く復讐のんびり旅行記~ @kagerouwan

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