04.

 〈当院は閉院しました〉


「……え、」


 宵が出張から戻ると、安心院の病院の扉は二度と開かなくなっていた。


 貼り出された紙には理由も何も書かれておらず、ただ「閉院した」という事実が宵の頭を殴打する。


 彼は片手に下げた袋を握り締め、何度も何度も張り紙を読みなおした。意味を捉え間違えていないかと口の中で言葉を繰り返しても、扉が開くことはない。


 病院の入口には、宵以外の患者も集まっていた。


「えぇ、突然」「何があったんだろう」「この病院、好きだったのに」「この前受付の人がヤマアラシ症候群になったって誰かが言ってたから……」「困るなぁ、急に、こんな」「残念だなぁ」


 群がる者達から離れるように、宵はゆっくり後ずさる。張り紙を見て溜息をつき、肩を落とす者達に吐き気を覚えながら。


 冷や汗を滲ませた宵は、小柄な息吸いの言葉を拾う。


「でも、ここの先生厳しかったよね。薬増やしてほしいって言ってもくれないし……」


 宵の頭が再び言葉に殴られる。彼は引き裂かれそうな胸を掻き、顔を寄せ合う患者達を見回した。歪んだ視界に移るのは人外達。あの鬼に、微笑む鬼女に、助けて欲しいと願った患者達。


 その、はずなのに。


「そうだよねぇ」「こっちは困ってるっていうのに」「患者じゃないから分からなかったんだよ」「まぁ鬼だし」「体が頑丈だったんだろうね」


「……ゃめろよ、」


 張り付きそうな喉を剥がし、宵は乾燥した唇を震わせる。小さな声は群がる声に弾かれて、重たい不満が共感と共に流れていく。


 宵の耳は小刻みに震えながら立ち上がり、尻尾の付け根が膨らんだ。


「受付の人も愛想なかったよね」「経営が苦しかったのかな」「やっぱりヤマアラシ症候群が原因だよ」「二人ともなっちゃったとか?」「あーあ」「残念」「いい病院だったのに」


「次の場所、探さなきゃ」


「やめろっつってんだろ!!」


 がなる宵に人外達は飛び上がる。そのまま顔を背けて散っていく姿は、なんと連携が取れたことだろう。種族も生き方も違うくせに、共感できる者同士で群がって。


 肩を怒らせた宵は「閉院」の文字を凝視した後、駆け出した。


 あれだけ優しかった者に対し、なぜ不満を零すことができるのか。どうして心配が先行しないのか。胸を痛めるべきではないのか。どうして、どうして、どうして。


 煮え立つ宵の思考は赤みを帯びる。


 消耗品としか思われていない自分に手を差し伸べてくれたのは誰だ。あの鬼女だ。

 診療時間内に来られなくても見捨てなかったのは誰だ。それも鬼女だ。

 傷だらけの自分を治療してくれたのは、笑ってくれたのは、大丈夫だって言ってくれたのは、誰だ。


「ッ、安心院先生!」


 宵の足は我武者羅に街を駆ける。風となった狼は人混みを諸共もせず、時には建物を駆けあがって周囲を見渡した。


 あの鬼女は優しくなかったのか。厳しかったのか。いいやそんな筈はない。いつも患者のことを思って、安心する笑顔をくれた。どの傷がどの程度で治るか。どうすれば痕にならないか。丁寧に教えてくれる姿に救われ続けていたのに。


 宵が握り締めた袋が傾く。鬼女を心配していた薬剤師は、本当にヤマアラシ症候群になってしまったのかと落ち着かないまま。


 邪魔だバカだと人に言いながら、それでも無理やり追い出すことまでしなかった。あの強靭な六本腕があれば宵を拘束するなど容易かっただろうに。適当なのに雑ではない扱いに、宵は息が出来ていたのに。


「どこ、どこだよ三珠、なぁ、聞いてくれよ」


 宵の呼吸が浅くなる。耳のいい三珠に呼びかけても反応はない。どれだけ視線を巡らせても、安心院の姿は見受けられない。


 どうして閉院したのか。何が本当なのか。一体何があったのか。


 二人の優しさに救われていた。居心地がよかった。二人と会話するのが楽しくて、一緒にいられる時間が好きだったのに。


 そう、宵は伝えていない。感謝を口にすることを躊躇ためらって、いつもぎこちない言葉しか吐けなかった。


 伝えなければ伝わらない。伝わっているだろうと過信してはいけない。伝えなければ、明確に示さなければ、それは相手の中に響かないのだから。


 優しさを、気遣いを、温かさをあれだけ与えてくれた異者と薬剤師。ならば二人に優しさを、気遣いを、温かさを与えるのは誰なのか。誰が二人に寄り添ってくれるのか。


 社会は、小さな温かさと無関心な冷たさで出来ている。


 冷たい者が温かさを貰っても、そのぬくもりは一時的。いつか消えてしまう瞬きの安堵。だからもっとくれ、前もくれた、ずっと温めてくれと強請ねだり始めて、貰えなくなれば元来の冷たさで棘を吐く。どうせそうなんだ、やっぱりね、がっかりした。


 冷たさが温かさを搾取した。どれだけ温めようと心を配っても、使い捨てカイロのように時間が経てば用済みだ。薄らいだ温かさに依存され、次を次をと期待され。


 ならば温かさは無限なのか。いいや、この世に無限など存在しない。己の中で燃やした気遣いを分けて、分けて、笑って、配って。それがいつまでもあるはずない。ある訳がない。


 自分だけで燃え続ける猛者などいない。どれだけ温かな人でも、温かくありたいと思える燃料が無ければ不可能だ。


 どれだけ崇高な志を持っていても、どれだけ神聖な想いを抱いていても、どれだけ支え合える同僚がいたとしても。


 温かさが燃え尽きる時は、あるのだ。


「先生、三珠、ッ」


 誰もが次の温かさを求めて去った中、宵は一人で走り続ける。仕事場から電話がかかってこようが、汗が流れて息が切れようが、喉が渇こうが足が疲れようが。


 狼は走る。温かかった鬼女を探して。あったかい場所へ行きたいと提案していた猫を探して。


 鬼女が息抜きに行くカフェにはいない。

 猫がよく立ち寄るコンビニにもいない。

 書店、スーパー、雑貨店。どこにも二人の影がない。


 しかし狼は止まらない。あらゆる会話を思い出し、二人が行きそうな場所をしらみ潰しに駆け回る。


 宵の影が長くなり始めた。陽光が街を橙色で包み始めた。


 顎からうだった汗を拭い、宵は近くの建物に寄りかかる。


 どこだ、どこだ、もうこの街にはいないのか。二人だけで温かい場所へ行ってしまったのか。自分は伝えることも、触れることもできないまま、冷たい場所に取り残されるのか。


「そんなの……嫌だよ」


 呟く宵は顔を上げ、街外れの丘を見る。耳の奥で安心院の言葉を再生しながら。


 唾を飲んだ狼は、再び駆ける。どうかそこにいてくれと願いを込めて。頼むから、もう一度だけでも話がしたいと切羽詰まって。


 全速力で宵が丘に辿り着いた時、夕日は街の地平線に沈んでいった。


 薄闇が辺りを覆い、微かに下がった気温が汗を冷やす。それでも宵は周囲を見渡し、肌寒さをかなぐり捨てた。


「安心院先生! 三珠!」


 呼びかけても返事はない。浅い呼吸を繰り返し、渇いた喉で咳いても寒いだけ。滲んだ視界は無視をして、宵は溢れる言葉で呼びかけた。


「ごめん、ごめん、伝えなくてごめんッ! いつも助かってた、先生の病院が好きだった。先生が好きで、三珠と話すのも好きで、息が出来て……あぁ、でも。それは俺だけで、俺は二人のこと、助けられなくて、閉めるまでに何があったかも、分からなくてッ」


 宵の下瞼から熱い雫が零れ落ちる。冷えていく体で、緩みが決壊した目元だけは煮えるような熱を孕むのだ。


「甘えてごめん。二人が苦しい時に、優しく出来なくてごめん。間が悪いとか気づかなかったとか、そんなの言い訳だ。全部終わって、遅れて気づいたって意味ないのに。そこで謝っても、好きだったなんて伝えても、意味、ないのにッ!」


 時間は有限。思った時に伝えなければ気持ちの鮮度は落ちていく。秘めたままで、後出しをしたって意味はない。言い訳を並べた所で救われるのは自分だけだ。自分は悪くなかったのだと。


 冷える宵の頬を熱くするのは、伝えきれていなかった後悔だ。


「……寒いんです、先生……また、叱ってくれよ、三珠」


 喉を押さえて宵はしゃがみこむ。丘の端に建てられた木造の柵を背に。


 疲れ果てた足を抱え、狼の尻尾は地面に落ちる。芝を撫でた尾にも垂れた耳にも覇気はなく、鼻を啜った狼は弱々しい。


 後悔はいつ消えるのだろうか。重たい鉛の感情が消化される日はくるのだろうか。胸に抱いた想いだけで、彼はこの先進めるのか。


 何も分からない狼の目尻から最後の涙が落ちた時。


 彼の耳は、控えめに芝を踏む音を拾った。


「汗が冷えては、体を壊しますよ」


 反射的に宵の顎が上がる。同時に近づいた灰色のロングジャケットを見て、狼の視界は再び滲むのだ。


 額に角あり、八重歯あり。黒髪短髪。儚い笑顔を浮かべる鬼女。


 元異者、安心院は、宵の前に膝をついていた。


「せん、ッ」


「おらー、説教担当が来てやったぞー」


 咄嗟に腕を広げた宵に頭からコートがかかる。大きな上着は宵の視界を覆い、狼は溺れるように顔を出した。肩にかかったコートは多腕族特有の作りになっている。


「外で叫ぶなよなー、ンな声張らなくたって聞こえてるってーの」


 気だるげな猫、三珠が宵の額を爪で弾く。


「まぁまぁ三珠さん。宵さん、お久しぶりです。お元気そう……とは、今は言えませんかね」


 苦笑した安心院の手が宵の目元を拭う。


 鬼女と猫を見つけた狼は、再び泣いてしまうのに。


 安心院は自分の指に伝う涙を、ゆっくりゆっくり拭い続けた。


「なん、なんで……病院、ほんと、ビビって……俺、」


「あったかい場所に行こうと思って、閉院したんです」


「もうこの街に戻る気もねーしなー」


「ぇ、そ、ぁ、あぁ……そ……なのか」


 垂れた狼の耳に、安心院と三珠は顔を見合わせる。


 安心院は黙って三珠の目を凝視し、言わんとすることを受信した猫の耳は伏せられた。


「あーもー、賭けはせんせーの勝ちですねー」


「ですね」


「……賭け?」


 ぼんやり言葉を繰り返した宵。彼の目元を安心院は撫で、楽しそうに頬を緩ませた。


「宵さん、私の話を覚えてくださってたんですね」


「……はい。先生の、息抜きの場所だ、って」


 宵は鼻を鳴らし、安心院に目尻を拭かれる。気恥ずかしさで尻尾を揺らせば三珠の手が頭に乗せられた。


「偉いねー、忠犬」


「俺……狼なんだが」


「イヌに変わりないじゃーん」


 髪を乱す三珠の手に宵は口をもごつかせる。猫の手が離れた後は、鬼の手が髪を整える為に指を差し込んだ。


 柔く撫でてくれる手は、いつも宵を手当てしてくれた温かさのままだった。


「……先生」


「はい、宵さん」


 微笑む安心院に宵は聞けない。何があったのか、どうして街を出ていくのか。真実はどこにあるのか。


 だが、今の彼の想いはそれよりも、先にあるから。


 宵は金色の双眼に光を宿した。


「あったかい場所に、俺も、着いて行くのは駄目ですか。荷物持ち、寝ずの番、ボディーガード。なんでもします、使ってください……お願いします」


 安心院が一瞬だけ間を作る。その間に宵は鬼女の手を取り、優しく力を込めたのだ。


 自信がなくとも宵は視線を外さない。安心院の目に訴えて、鬼の瞳が溶けるように弧を描く様を見届けた。


「勿論、逆にこちらからお願いする所だったんですよ」


「……え、」


「俺達が出発する前にお前が来たら声掛けよーって。俺は来ないに賭けてたんだけどなー」


 再び三珠が宵の頭を撫でる。しかしその強さは髪を労わるものであり、宵の鳩尾みぞおちは熱を覚えた。


 握り締めていた安心院の手は、優しく宵の手を握り返してくれる。


「改めて。宵さん。よければ私達と一緒に、あったかい場所探しに同行してくれませんか?」


 微笑む鬼女の言葉を、焦がれた狼が拒むはずもなく。


 深く頷いた宵は、安堵の涙で目尻を赤く染めたのだ。


「お前って泣き虫なのなー」


「マジで……もう、会えないと思ってた、から……」


「すみません、何も言わないままで」


「いや、いいんす、いいです……間に合った、から」


「はい。宵さんの言葉、ちゃんと届きましたよ」


 楽しそうな安心院に髪を整えられ、宵の尻尾は穏やかに揺れる。借りている部屋の解約、荷造り、退職届と、狼は色々な必要事項を思い浮かべた。二人がいてくれるなら、どんな作業も面倒ではないと予感して。


 緩み切った宵の顔に三珠は息をつき、狼が持っていた袋を指さした。


「そーいえば、それ何持ってんだー?」


「あ、これは……」


 思い出した宵の顔から一気に血の気が引く。さっと袋を背に隠した狼に、鬼女と猫は視線を合わせた。その後、意地悪く頬を上げる。


「なに隠したんだー」


「いや、」


「それ何ですか? 宵さん」


「あの、絶対中、ボロボロなんで、」


「はいはい没収ー」


 腕が二本しかない宵が六本腕の三珠に勝てるはずもなく。


 袋から出てきたのは洋菓子店の箱。安心院と三珠は顔を付き合わせ、宵はしおらしく項垂うなだれた。


「……出先で、美味いって聞いてたから。いつも世話になってる先生と、三珠に……お土産、の、つもりで……」


 宵を見た二人は箱を開ける。中にはケーキだったものが数種類入っており、クリームは混ざり、原型は崩れ、フルーツや飾りが散乱していた。


「宵さんが走り回られた形跡が見えますね」


「おもしれーくらいにグチャグチャじゃーん」


「ほんと……ごめ、」


「あ、フォークついてますね」


「ラッキー、買わなくていいねー」


「え……」


「宵さん、ここで食べませんか? 夜空を見ながらのケーキも乙だと思うので」


「俺このフルーツのやつ食べたいな―。いただきまーす」


「いや、ちょ、それもう、」


「食べられますよ。大丈夫です。私も遠慮なくいただきますね」


「混ざってるから色んなのつまめるじゃーん。早く食わねーと宵の分も食べるぞー」


 宵の静止も聞かずにケーキをつまむ安心院と三珠。呆気にとられた宵は恐る恐る二人の間に入り、渡されたフォークを握った。


 白い箱の中は宵が時間をかけて選んだケーキの無法地帯となっている。潰れたスポンジ、弾けたクリーム。それらを掬って鬼女と猫は口に運ぶ。安心院は幸せそうに目元を染めて、三珠も満足そうな表情で。


「美味しいです。ありがとうございます、宵さん」


「美味いの選んだじゃーん。ありがとな、この店また教えてー」


 返事が喉につかえた宵はなんとか頷く。狼は緩みそうな頬を引き締めて、ぎこちない動作でクリームとスポンジを掬った。


 彼が二人の為にと選んだもの。少しでも返したかった優しさの象徴。


 口に含んだケーキは甘く、宵の体を温めた。


「グチャグチャでも、いけるんすね」


「いけるいけるー。形なんて二の次でいーんだよ」


「せっかくの宵さんのお土産ですし、食べないなんて勿体ないです」


 一つの箱を囲んで三人は言葉を交わす。


 どこに行こうか。北か南か、東か西か。電車に揺られればきっと楽しい。今の季節なら山が綺麗だろうね。やっぱりグランピングをしてみたい。


 交わる言葉が互いを温め、優しさが口の中で解けていく。小さな気遣いを積み重ねてきた三人は、互いの為だけに街へ背を向けた。


 空になった箱に手を合わせ、寒さを置いて行くために。


「行きましょうか」


「まずは狼の身支度なー」


「っす」


 並ぶ三人は丘に消える。今日も誰かが温かさを配り、誰かが消費した街の端で。


 鬼と猫と狼は、あったかい場所を求めて旅立った。


――――――――――――――――――――

抱き締め続けた鬼。

同僚を支え続けた猫。

二人を追いかけた狼。


三人はこれからどんな場所へ行き着くのでしょうね。


小さな小さな優しさを集めた彼らを見つけてくださって、ありがとうございました。


藍ねず

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