愚人讃歌

八百本 光闇

愚人賛歌

1 変わった子


「江藤さんはクラスに気になる人とかいるの?」

 ギターの弦から指を離して、あたりを見渡した。最初に目についたのは森元だった。『あまりもの』として、数合わせのためにグループに入れられた彼女は、一生懸命にギターの練習をしている。ちょこんと座った後ろ姿がかわいらしい。きっと丸く太い指で必死にコードを押さえているだろう。森元の音は下手くそで良い。健気に弾いている感じが堪らない。音楽の時間で最も楽しいのは、彼女の稚拙な発表を聞いている時だ。

 私は当然、森元が気になる人だと言いたかった。しかし彼女の言う気になる人とは、異性が前提であるという『空気』を読んだ。

「……高井くんとか?」

 だから、次に目についた高井と答えた。彼はクラスで一番背が高いのでよく目についた。

「ええっ、嘘でしょ〜!」

 彼女は大袈裟そうに笑って、他の女の子の方を見て目くばせをした。他の子らも、それはないだろうとでも言いたげにニヤニヤと、彼女の方を向いた。

 ああ、ミスった。『空気』を読めなかった。彼女らの期待に答えられなかった。彼のどこが悪いというのだろう。顔? 性格? そんなものは私に推し量れる物ではない。それはマジョリティである彼女らだけに任された特権なのだ。

「じゃあさ、学年の中で一番気になる人は?」

 彼女はそう言って訝しげに私の目を覗く。私の中で彼女の黒色の目が大きくなる前に、すばやく音楽室全体に顔を向け、高井の次に目につく男子の名を呟く。

「椎木くんかな?」

 椎木は有能だった。地元でトップの進学校を目指していて、顔は東欧混じりのハーフ顔で、背は高く、リレーではいつも一位を貰っている人間だった。しかし彼女はいない。そういう人間は、女子からモテるらしい。だから、椎木という回答自体は『空気』が読めていると思った。

 ただ高井も椎木も同じクラスだった。クラスで気になる人が高井なのに、学年で気になる人が同じクラスメイトである椎木。私の論理はおかしいことになる。しかしそれしか思いつかず、口に出してしまったのでもう遅い。

「だよねーー、彼完璧だよねーーって、椎木くんも同じクラスじゃん!」

 彼女の声に非難の色は認められず、純粋な疑問のようだった。乗ろう、と思った。

「だから、高井くんがクラスの中で一番気になっていて、椎木くんが学年の中で一番気になっているってことだ」

「えーっ!?」

 私の返事は彼女にとって不合理なものらしかった。私自身でも不合理だと思ったのだから当然だ。しかし彼女も、他の子らも、笑い出した。

「江藤さんって、独特で面白いよね!」

「……うん? まぁ……そうですね……」

 曖昧な答えをした。私は私自身の評価を言われたときの返し方を知らなかった。答えに詰まると、敬語になる奇妙な癖があった。私が敬語で何かを言うたび、彼らは失笑した。



2 変な子


 用を足して、トイレの個室から出ようとしたとき、クラスメイトらしき女子たちのヒソヒソ声が洗面所から聞こえた。私のことを言っているようだったから、開けかけた個室のカギを閉めて聞き耳を立てた。

「江藤さんってさぁ……なんか、変な言葉使うよね。ブンガクテキっていうか……」

「それ。言葉遣いがちょっとズレてる」

「同じ年齢なのに変な敬語も使うよね」

「『そうですねぇ〜〜』『はいぃ。わかりました!』」

 女子の一人はわざとらしく、私のセリフを演じた。声に抑揚が無く、しかし情けない感じだった。

「はっ、すっごい似てるじゃん! マジでおもろいわ〜あの子。なんでああいう言葉づかいなんだろうねぇ?」

「自分では頭いいと思ってるんじゃない? だってあの子さ、いっっつも教室か図書室で本読んでるし」

「話かけてあげても目とかも全然合わせようとしないし、たまに無視するし。自分の世界しかないって感じ」

「うわマジ? ガチキモいじゃん。ウケる〜」

 足音が消えるのを待って、個室から出た。緊張か何かで、手が固まっていた。不快だ。私は手を洗った。水が私の手を弾いて洗面台に落ちた。私に何が不足しているのだろう。学力? ――中の下。運動? ――下の中。性格? ――周りに人が集まらない程度。コミュニケーション? ――ろくでもない。

 石鹸を手で擦って、すりつぶすように泡立てる。水で洗い流し、制服のスカートで手を拭き、鏡を見ると私は泣いていた。メガネを外して涙を拭っても、目元は赤いままだった。このまま教室に戻ると、何か言われるかもしれない。あるいは、私を気にするほど余裕がないのかもしれない。しかし、たとえ誰にどう思われていても、私は教室に行かなければいけない。行かないともっと変な目で見られるから、私は教室に行かなければいけない。



3 不器用な子


 私は体操着に着替えながら、教室の後ろ一面に張り出された、クラスメイトの自己紹介カードを眺めていた。『みんなちがってみんないい』と書かれたクラス目標の下に張り出されることで、各々の個性の良さを知り、クラス目標を達成するのが目的らしい。

 私はいつも森元の自己紹介カードの場所で着替えていた。ここなら彼女のプロフィールを眺められるし、一人で着替えている彼女の姿も見やすい。私はこの場所を気に入っていた。私は振り向いて、森元の着替える姿を見ながら、彼女のプロフィールを心の中で呟く。

 彼女は森元由衣と言って、写真はぽっちゃりとした顔にピンクの縁無し眼鏡が特徴的で、好きなものは流行りの大衆向けアニメで、将来の夢はトリマーで、誕生日はクリスマスイブだった。クラスメイトへ向けた一言コメントは、『よろしくお願いします』といった平凡なものだったが、私には特別なものに思えた。彼女のプロフィールを何回も見たおかげで、すらすら言えるほどに覚えきった。

 森元は、制服を脱いで、下着姿になった。彼女の肌があらわになる。ややぽっちゃりとした体と、中学生にしてはやや大きい豊満な乳房。着替えている彼女の姿を見ていると、毎回、劣情を由来とする妄想が頭をよぎる。森元と風呂に入ったり、森元と寝たり、森元の隠された姿を妄想した。彼女は私よりも不器用だから、私がいろいろと手伝ってあげる必要があるだろう。彼女は私よりも不器用だ。そうに決まっているし、そうでなければならなかった。



4 いつも一人の子


「では、ペアを組んだ人から座るように」

 体育教師の言葉を皮切りに、みんなは、バレーボールを持ちながら、仲の良い子同士で集まろうとする。私は真っ先に森元の方を見た。案の定、森元は独りで佇んでいた。私は森元が誰かに取られる前に(取られることなんてないに決まっているが)すぐに彼女の方に行った。

「今日もやる?」

 私が問うと、森元は笑顔で「うん」と頷いた。

 森元と私は座った。これまでは、私はいつも最後まで立っていて、人々から奇異の目に晒されていたが、今は違う。同じ『あまりもの』がいる。私は体育教師の説明を聞きながら、ほくそ笑んだ。

 体育教師の説明が終わったので、ペアで練習するために、私と森元はバレーボールを手に空いている場所に行っ て、ボールを投げ合う。しばらくは無言だったが、他の人は楽しそうに喋っていた。だから、私も何かを喋らなければいけない。私は彼女のプロフィールを思い出した。

「由依ちゃんは〇〇っていうアニメが好きなんだって? 何のキャラが一番好き?」

 人と話すときは笑顔のほうが良いとネットに書かれていたから、笑顔になるよう努めた。なんの返事も帰ってこなかったが、きっと彼女は緊張しているのだろう。

「自分はやっぱり△△かな~。いつもはダメダメなんだけど、やるときはやるって感じが良いんだよね」

 彼女は何も返事をしなかった。きっと周りの声がうるさくて声が届かなかったのだろう。私にとってそのアニメは重要事項ではなかったので傷つかなかった。そんなことより、森元が笑っていたのが何より重要だった。

 ちょっと休憩していると、体育教師がやってきて、私たちに声をかけた。

「仲良さそうじゃないか」

「ええ。いつも一緒にペアになって練習してますから」

 教師と話すのは楽だった。どういう言葉づかいをすればいいのか決まっているからだ。体育教師は、森元に聞こえないように小さな声で言った。

「これからも森元に声をかけてあげてくれよ」

「はい、もちろんです」

 私は笑顔でうなずいた。やはり、森元の世話をするのは私だ。



5 違う子


 私と森元は、下校の道が途中まで同じだった。彼女の様子を観察したくて、毎日、校舎から出るタイミングを同じにして、ゆっくり靴を履いた。

 機会があれば、彼女に話しかけて一緒に帰ろうと言いたかった。何回か体育の授業でペアになって喋ったのだから、それくらい許されるはずだ。

 私はいつ話しかけようかと、もたもたしていた。なぜなら私は、雑談目的で人に自発的に話しかけることなど、ほとんどなかったからだ。人間関係のほとんどすべてを受動的に終わらせてきた私にとって、ペアの誘いをすることさえ、革新的なことだった。

 そうして、尻込みしていると、森元のところに、一人のやや太った男子が来た。名前はたしか、三好と言ったか。

 三好は、『ひまわり組』にいる生徒だった。小学生のころから支援学級にいるから、印象に残っていた。彼は支援学級にいる生徒の中では、普通のように思えた。どこが違っているのだろう。どこが異常なのだろう。それは私の知るところではなかった。

 彼が来ると森元はにっこり笑って、手を繋いで、並んで校舎を出た。私はそのまま森元と三好のあとを、気づかれないよう足音を消してついていった。

「今日は、授業でうまくいったんだ。数学の苦手なところが出てきたけど、がんばって解いて、正解だった」

「へぇ。すっげえじゃん!」

 三好がそう言うと、森元は手を繋いでいない方の腕をパタパタとさせた。楽しそうだった。それは、体育の時に私に見せる姿とは程遠かった。

「翔貴くんは?」

「ぼくは、歌を歌ったんだ。クラスのみんなで」

「ふふ、楽しそう」

「楽しいよ! それでさぁ――」

 私はいつの間にか、手帳を開いていて、森元と三好の会話や様子を書いていた。元々書くのは好きだったから、すらすら書けた。私は何をしたいのだろう。自分の行っていることの理由が、分からなくなることがよくある。一つ分かるのは、私自身が馬鹿だということだけだ。



6 記録


『――今日も彼女は彼と手を繋いで帰っていた。彼女の手を繋いでいない方の手がゆらゆらしていた。パタパタさせたりゆらゆらさせたり、彼女の動きは面白い。』

『彼女は一度も振り向いてこない。彼女と彼が特別鈍感だからというのもあるだろうが、私の足音もよく消せているからだと思う。』

『彼女は親について話していた。』

『クラスメイトか何かが、彼女たちを見て何か噂をしていた。邪魔だった。』

『彼女は彼に今日の出来事を話していた。横顔がとても楽しそうだった。普段は無表情なのに、今は彼との時間を楽しんでいるようだった。彼だけに見せる顔は、特別だった。』

『彼女と彼の体型はよく似ている。二人とも少し太っている。だからこそ、二人で並んで歩くのは似合っている気がした。私よりも?』

『今日、彼女は彼と会う約束をしていた。日時は彼女の誕生日のクリスマスイブ。場所は中学近くの公園。何をするのだろう。行ってみようと思う。』



7 仲のいい子


 森元と三好は、公園のベンチに座っていた。私は、二人に気づかれないように物陰に隠れて彼らを見ていた。最初は近況報告ばかりを話していたが、しばらくたつと、三好は口数か少なくなった。

「どうしたの? 翔貴くん」

「えっと、これ」

 三好は森元におしゃれに包装された袋を差し出した。

「えっ……?」

「誕生日だから」

「わ、ありがとう。うれしい……」

「ぜんぜん大丈夫だって!」

「家に帰ったら見るね」

「うん」

 森元と三好は、スマホで何かを見て笑ったり、公園の遊具で遊んだ。私はずっと彼らを見ていた。

「じゃあ、もう遅いし、また明日」

「うん」

 私は彼らが消えたあとも、しばらく立ちすくんだ。典型的な会話だった。普通の会話……仲のいい、違和感のない会話……三好を私に置き換えたら、きっと何一つうまくいかないだろう。私は、森元と三好が消えるまで、呆然と空を見ていた。彼らにふさわしい、綺麗な夜空だった。


 小腹が空いたから、コンビニでチキンを買った。彼らが座っていたベンチは冷え切っていた。チキンを食べた。食べ終わって、家に帰ると、夕食も食べずにすぐ眠った。



8 普通の子


 テストが返ってきた。43点だった。お調子者として知られる、いつもニヤニヤしている男子が、友達に彼自身の点数を開示すると、彼の友達は、「38点かよ〜」と彼をいじった。彼より点数が上回っていても何も嬉しくない。私は自分の机へ戻りながら、既に返されていた森元が握るテスト用紙をちらと見た。62点だった。

 私は席に座ると、うつむいて、小説を開いた。主人公は私よりも落ちぶれていた。主人公は、いつも虚しい気持ちを心に抱えていて、いつも死にたがっていた。何もかも上手くいかない主人公が、やはり上手くいかない人生を歩む小説だった。主人公は愚かな人間だ。主人公は試験がうまく行かなかっただけで、くよくよしている。主人公は愚かだ。私はそのような弱い人間ではない。「……さん」主人公は、自分が普通ではないことに苦悩していた。『普通』の意味を探していた。彼は『普通』になろうとしたが、彼はすべてにおいて劣っていたから、『普通』にはなれなかった。「……えとうさん」そして、彼は何もできずに「江藤さん!」

「……はっ? うん?」

「帰る時間ですよ!」

 担任が優しく言った。教室には誰もいなかった。

「……あ、ああ、そうですか……じゃあ、帰ります」

 帰える準備を始めようと、立ち上がった。小説に集中しすぎて、時間感覚を失ってしまった。普段はこういうことが起こらないよう、小説を読むときは注意していたのに、今回はなぜか集中しすぎてしまった。なぜ、こうなるのだろう。

「江藤さん……最近、疲れているように見えますよ。大丈夫?」

「特に疲れている感じはしませんよ。毎日のルーティンを消化しているだけなので」

「ル、ルーティンって……江藤さんっていつも大人びた言葉使うね。まぁ、いいことなんだけどさ。そんなことより、何か悩みがあったらわたしに言ってね」

「悩み?」

「じゃあ、一ついいですか」

「うん」

「『普通』って何ですか」

「え?」

 担任は狼狽していた。聞こえなかったのだろうかと思って、もう一度繰り返した。

「『普通』って何ですか」

「普通……普通、ねぇ……難しいねぇ」

 担任は首をひねって私の言った言葉の意味を咀嚼しているようだった。

「ここは普通学級ですよね。じゃあ、この普通のクラスとは違う『ひまわり組』は異常学級ってことになるんですか」

「異常なんかじゃないよ、特別支援学級っていうのは、みんなと同じことをするのが苦手なおともだちが行くところだよ」

「それが異常ということじゃないんですか」

「うーん、とねぇ……」

 担任は、いったんため息をついてから、また喋りだした。

「……あの子たちが異常ってわけじゃないから。これだけは分かってなさい。ほら、もう遅いから帰ろう。遅くなるとおかあさんも心配するよ」

「そうですか。じゃあ、帰りますね」

「うん……」

 私は、用意をすると、走って玄関に行った。森元の靴箱には上履きしかなかった。下校時刻から時間が経っていたから、森元たちがいないのも当然だった。私は一人で帰った。一人で帰るのは、久しぶりだった。家に手袋を忘れたせいで、寒風が手に刺さった。



9 死にたい子


 家に帰って、布団に寝転んで、動画投稿サイトを開き、『死にたい』と調べた。病んだ音楽が沢山ヒットしたが、音楽は聴かずコメントだけを見た。馬鹿らしいコメントがたくさん集まっていた。彼らはみんな、私より精神が弱い。彼らを観察するためにここに来た私とは違って、彼らはこんなに惨め。彼らは普通の人だ。私はスマホを閉じて、布団のそばに置いた。

 私は小説を開いた。そうして、日が明けるまで、1から読んだ。やはり、主人公は何もできずに死んだ。『普通』になれないのなら『異常』になって死ねばいいのに、と、思った。そう、『異常』になれさえすれば、いい。



10 異常な子


「ねえ、森元さん。放課後、ちょっと教室で待っててくれる?」

 私が笑顔でそう訊くと、森元は何も知らずに頷いた。なんだ、人に自発的に話すのは、こんなに簡単だったのか。もうそれは、意味のないことだが。

 私は帰る用意をせずに、自分の席に座って、ぼおっと担任の声を聞いた。

「今日は職員会議なので、掃除はないです。椅子を上げないでくださいね〜」

 担任も、何も知らずに連絡をした。

「では、さようなら」

「さようなら〜」

 しばらくすると、クラスメイトもどこかへ消えて、教室には彼女と私だけになった。

「森元さん、こっち来て」

「うん……?」

 私は、森元を教室の端に移動させた。私は、森元を抱きしめた。私の手を彼女の背中に這わせる。二人の顔が近くなる。彼女のにきびがはっきり見える。人間の臭いが濃くなる。彼女は怯えている。彼女の怯えた顔が、私の劣情を刺激した。私は、私の腹の内を、ぶちまけた。

「他の人より大きいその胸が好きだ。ろくに解いていないようなその髪が好きだ、話しかけてあげてもちっとも返さない性格が好きだ、ぼそぼそと吐く音読の声が好きだ、簡単な計算も指でやってる君が好きだ、他の人より物ができていない無力な君が好きだ、普通じゃない君、なのに普通を目指そうとしてる、努力ができない、運動ができない、人を見下すことしかできない、異常を誇っている、テストの点数が低い、何もできない、何者にもなれない……はぁ、あぁ……まるで……愚かだ」

 私は彼女にキスをした。手が震えていた。泣いていた。息ができない。唇がひんやりとしている。人間の肌。唇だとしても、人間の肌であることには変わりなかった。舌を押し付けた。食べ物の残り滓の味がした。気分が悪かった。しかし彼女らしかった。私はそれを味わおうと彼女の口内を舐めた。彼女が震えているのが、分かった。

 しばらくして、唇を離すと、私は彼女に笑いかけた。森元は淀んだ顔をしていた。明確に私を拒絶していた。

「何をやっているんですかっ!」

 振り向くと、担任が異様な形相で立ちすくんでいた。私は何かを言おうと、口を開けたが、言葉が出なかった。なのに何か突き刺すような欲望が、私の神経を貫いて、私は獣のような唸り声をあげて担任に向かって、殴った。担任は少し驚いたように見えたが、私の攻撃は効いていなかった。担任の声によって、いつの間にか周りに集まっていた何人かの生徒が、私の腕をつかんで取り押さえた。私は脱出しようともがいたが、そのたびに彼らは私をもっと強く抑えた。

 担任は、怯えた森元の方を憐れむように見た。

「森元さん、森元さんは大丈夫ですか!?」

「あ、はい……」

「江藤さんは、何を……?」

「いえ、突然、聞き取れませんでしたが……何かつぶやいたと思ったら、私に触れ、いや、殴ってきました。殴って、きました……」

 森元は軽蔑したような眼をしていた。それはもう森元ではなかった。私が森元でなくさせた。

「え、こわ……」

 誰かが言った。

「これからどうするの?」

「知らない」

「やっぱり、ヤバい奴だったんだ」

「……とりあえず、森元さん、保健室に行きましょう。何か怪我がないか診ましょう。誰か、一緒について行ってあげて」

 森元は数人の生徒と、保健室へ消えてしまった。教室から出る直前、私の方を一瞬見た。

 いつもなら、こんなに人に触れられたら、泣き出して、何も考えられないはずなのに、今はむしろ、不思議な、しかし悪くない高揚が、私を包んでいた。彼らは私の目に映る、私以外の何かを見ていた。どう裁いてやろうかという風に、異常者でも見るかのような目。誰も私に同情しなかった。私はまた何かを言おうとしたが、何も言えなかった。言語だけではなく、音が出ない。喉が押しつぶされそうに熱かった。断頭台に登った死刑囚は、こういう興奮を覚えたに違いない! 私は、私を抑えつける彼らに、その役割に殉じさせてあげようと思った。私は、彼らに抵抗できないとわかったとでもいうように、身体から力を抜いた。彼らは、私が力を抜いたと分かると、さっきよりも優しくなった。彼らはみんな私を見ていた。そして私は、彼らの空虚な目に映り込む、空虚な私を眺めていた。



(了)

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