忘れえぬ夏の輝きと

燈夜(燈耶)

忘れえぬ夏の輝きと

お日様がアスファルトを焼き、地表が揺らめく。

遠くからも、近くからも、途切れることのない蝉の声が聞こえる。

俺はあの日と同じように、一人神社への道を歩く。

農道だ。しかも区画整理されていない。

江戸、明治、大正……そして令和と昔も今も、同じ風景が続いてきたのだろう。

そんな道の両側は刈り込まれているが、ところどころでススキが自己主張している。


暑い日である。うん、盛夏といえよう。

アイスをトリプルに重ねたような、入道雲を見上げつつ思う。

婆ちゃんの家に残した、飲みかけのコーヒーカップを思い出す。

砂糖を渋ったせいか、実に苦い味だった。


「まあ、人魚のプリントシャツはねえよな」


うん、あれは女の子用の服だ。

あの頃、ばあちゃんから渡されたのは、美人の従姉のお下がり。

おして、俺の手には爆竹で破壊された、背が高く男前な従兄の手によるロボットのプラモデル。

従兄はジオラマでも作ろうとしていたのだろうか。

聞いてないのでわからない。

なぜ聞かないのか、なぜ聞こうとしないのか。


──わからない。


俺には時々そんなところがあった。

興味の幅が、自分でも謎なのだ。

今日の俺の動きも、そんな俺の不思議行動の一つと言える。


この農道の先は、地域の鎮守様だ。

俺は田んぼの連なる道を進み、こんもりとした森を目指す。

そこには古い、古い神社があるはずだった。


暑い。怠い。しかし、手の甲で汗をぬぐう俺を突き動かすものは。

今向かっている神社への道を進み、幼いころの約束を果たさねばならない、という思い込み。


──馬鹿だよな。


自分でも思う。

あの約束をしたのは、たしか小学校低学年のとき。

あの子の栗色のツインテールは、あの時も風に遊ばれ揺れていたっけ。

そう、その子は。


『十年後くらいのね、夏のお盆前に、また会ってくれる? 大きくなったらね、またこっちに戻ってくるの! ねえ、その時に、またね、神社で! 私と!』


どこに行くの? との俺の問いに彼女は。


『私、今度東京に引っ越すの。都会だよ?』


などと、どこか誇らしげに俺に話してくれたっけ。淡い赤い服を着た女の子。

いつも彼女が遊びをリードし、俺が付き従っていた。

彼女が田舎の出身でないのは明白だった。

今思えば、その服は洒落ていた。来ている服のセンスがずば抜けていたのだ。

いわく、泥臭くない。

どう見ても都会の住人。

そんな、異邦人に見えた彼女である。

そしてその子は全身から、どこか人形のように可愛げが滲みだしていたのだ。

今では相当な美人になっているに違いない。


だが、本当にそうか?

だろう。思い出は美化されるものだ。

だが。

俺は歩みを止めない。

約束は約束。


「馬鹿だよな、俺」


今度は声に出た。でも、俺は歩き続ける。


途中の辻。大木の隣にある地蔵が目に入る。

そして、俺は木の幹に違和感。

茶色い欠片、そう、セミの抜け殻だ。

俺は摘まんでそれをとる。


──その頃も、必死で抜け殻や、セミを追ったっけ。

そしてそんなときには、小奇麗な服を着たあの子がいた。


『メキッ』っと音がする。


「しまった」と俺は道の途中で拾ったセミの抜け殻を砕いて思う。


──ホント、ホント馬鹿だよな、俺。


もう、目の前には鎮守の森が見える。

苔むした石階段と鳥居も、錆びたベンチとバス停も、そして樫や椎の木も、何も変わらない。


木々の水気を含んだ、青く冷たい風が神社の方から流れてくる。

俺は一歩踏み出し、神域へと足を踏み入れた。


社が目に入る。

自然と背筋が伸びる。

そして、俺は静寂の支配するこの土地に踏み入れる。

自然と俺は人の姿を探していた。


──ふっ。


俺は自然と笑いが漏れる。

何を期待していたのだろう。何を望んでいたのだろう。

全ては今、巧くいっていないからか。現状に満足していないからか。

確かに学校は面白くない。

塾に行け、家庭教師を困らせるなと口を酸っぱくして俺に押し付ける両親ともうまくいっていない。

大事だということは分かる。

だけど。

だけど、そこに俺の意思は? 俺の希望は?


俺は思う。


──だから俺は、あんなつまらない過去にこだわるんだ。

約束以前の幼いやり取り。

そんなものに、何の価値がある?


──何もない。

改めて思う。俺は木々の葉でおおわれた、入道雲の湧く青空を見る。


セミの声が、俺の体に心に沁みる。

俺の愚かさを、夏の厳しい太陽と一緒になって、あの約束の日のように、現実を俺の魂に浴びせかける。


──ああ、そうさ。夢想。憧れ。夢。価値は時とともに変わるもの。


俺の頭の中を、色々な感情が駆け巡る。

そしてあんなにはっきりと覚えていた女の子、あのツインテールの赤い影の子の表情がみるみる溶け崩れ、のっぺらぼうになっていく。


──そうさ。あれは俺の子供の頃の幻影。幼いころに特有の、ただ過ぎ去るだけも幻。


柄にもなく、私的な言葉が浮かぶ。

そして、いつまでも空を向いていた俺の両の目尻から、暖かい水がこんこんと湧きだしては地に落ちてゆく。


そう。

高校生にもなって俺、友人の遊びの誘いを断って、塾夏期講習も断って。

うん、俺、一人で婆ちゃんの家に泊まりこんでまで。


──いったい何をしているんだか。


目尻から溢れる熱いものは止まらない。

ああ、ああ、あああああ!


セミの声が俺の声を殺し、ぎらつくお日様が俺を見降ろす。

そんな今日、約束の場所で俺は現実を知ったのだ。


どのくらいたっただろう。

どれほどの時間を過ごしたか。


太陽は西に傾き、優しい光を木々の葉越しに俺に投げかける。

そしてセミは相変わらず鳴いていたが、昼間の彼らとは奏者が違っていて。


──帰ろう。


それらは俺の心を折り、諦めさせるに十分だった。


苔むした階段を下りる。落ち葉を踏む。そして古い石鳥居を

くぐり、トタンで作られたボロいバス停に出る。


「え?」


──ん?


俺は何かを聞いた。

柔らかく、優しい、そして少し尖った声を。


俺はバス停を振り返る。

ボストンバックを引いた、年のころ俺と同じくらいの女の子。

淡い赤色のワンピースを着た、茶色のツインテールが歳以上の幼さを強調している女の子。


──ああ。


俺の頭の中で、思い出が再構成される。

あの頃も可愛かった。でも今はそれ以上に奇麗だ。

うん、うん。

まさか、まさか!


俺の胸のハートは跳ねずにいられない。


「君は……」


かすれる俺の声。

見開かれる、彼女の目。


その目はまっすぐと俺に注がれて。


「──まさか、人魚くん?」


ぼそりと彼女。

俺は口から約十年の時間を込めて噴き出した。人魚くんはないだろ人魚くんは。

でも、彼女、本当に、彼女がここに!

俺の顔は真っ赤だろう。

顔が熱っぽくなるのを感じる。

うわ、俺、緊張してる、すごく緊張してる、恥ずかしいったらありゃしない!

でも、そんな俺の思いをよそに彼女は続ける。


「やっぱり!」


 小顔が可愛い彼女の声が踊る。

ついでに彼女の体も踊って、右手でビシッと俺を指さしてくる。

 驚く俺は返事をしない。表情も消えているはずだった。


「え、あ」


 そう、言葉にならない。

 とたん、彼女の端正な顔が曇る。


「あ、ごめ……違った?」


 その弱弱しい声で俺は自分を取り戻す。

 知らず、俺の頭の芯から喜びがあふれてくる。

 だから、俺はこんな軽口を言う。


「悪い、もう俺は人魚の服は着ないんだ」


 彼女の動きが止まり、目を見い開いては両ほうの掌で自分の口を覆い、アハハと笑う。

 目が笑っている。


「うん、約束! まさか会えるなんて!」


 鈴が転がるような声だった。

 俺は何とか頷く。


「うん」


 彼女は軽く飛び上がる。

 全身から喜びの感情が伝わってくるようだ。


 俺の中に、次第と膨れ上がる感情。しばらく味わうことのなかった温かみのある心。

 ああ、当然だ。俺は諦めていた。

 今、つい今先ほどまで、自分の過去を清算したつもりだった。

 でも、でも!


 こうして思い出の彼女と出会う。


 ──信じられない。


 が、彼女は。


「ね、人魚くん? 再開を祝して連絡先、交換しよ?」


 彼女は小首を傾け携帯端末を俺に見せ、そう呟いてくれたのだ。


 俺は彼女のその言葉の意味を理解するのに暫くの時間、固まった。


 俺はおずおずと、ポケットの中の携帯端末を取り出して。


 これは夏のサプライズ。

 あとは決まっている。

 俺の新たな決意。

 

 それは、今の一瞬の奇跡を、ひと夏の思い出ではなく。

 そう。この奇跡を永遠のものとしてゆくことだ。

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