第8話
「ねぇ、起きてる?」
「あぁ、どうした」
どれぐらい経ったのか分からない。
今日も寝られないなと思っていたら、何の前触れもなく海が話しかけてきた。
「僕、幸せだな~って思って」
「いきなりどうしたんだよ」
「いや、改めてそう思っただけ」
俺は何も言えなかった。
それでも海は続ける。
「翼は僕のことどう思ってる?」
男にも女にも見えないのに、男にも女にも見える顔。
中性的であり無性的な海の表情は消した電気のせいでよく見えなかった。
「僕ね、海に受け止めてもらえて嬉しかった」
いつもの少し高めな声とは違って低く落ち着いており、海の声のはずなのに全くの別人の声に聞こえる。
その声音からは感情を読み取ることはできない。
だけど、どこか寂しさを感じるのは何故だろう。
「翼」
いつの間にか寝返りを打った海が俺を見つめているような気がしたが、生憎暗闇に紛れていて何も見ることはできなかった。
そのまま海は言葉を続ける。
まるで俺がそこにいないかのように。
俺の返事なんて期待していないように。
「…僕のことを可哀想だと思わないで」
「……分かった」
そう答えれば、少し間が空いたあとに「ありがとう」と小さく呟いたのが聞こえた。
そして、その後は規則正しい呼吸音が響くだけだった。
でも俺はこのまま寝られる気がしなくて、カーディガンを羽織って旅館を出た。
「あんなの、海じゃない」
過呼吸に似たような症状に陥りながらも、必死に酸素を取り込もうと喘ぐ。
それが苦しい上に思考を振り払いたくて思い切り走った。
今が何時なのかなんてどうでも良かった。
ただ、これが現実だと思いたくなかった。
「こ、こって」
走って息が切れる中、ふと顔を上げるとそこは昼間に訪れた海だった。
しかし潮が満ちているせいで昼間と同じ海には見えなかった。
波打ち際まで近づき、海を眺める。
夜の砂浜は昼間よりも冷たい空気が流れており、俺の体温を容赦なく奪っていく。
「なんで、こんなことになったんだろう」
思わずそう口に出した。
足元を見ても、もう昼間に訪れた時に付けた沢山の足跡は1つも見当たらなかった。
まるで初めから足跡なんてそこに存在しなかったかのような海の様子に段々と恐怖が積もっていく。
「海」
返事をするように波が押し寄せては引いていく。
それが生き物のように見えて仕方ない。
「…海」
どれだけ手を伸ばしても届かない。
だから足を進めた。
いつか海に受け入れてもらえると信じていたから。
「海!!」
気が付いたら俺は大声で叫んでいた。
それは悲鳴に近いかもしれない。
自分でも何の意味があるのか分からないまま叫び続けた。
すると突然後ろから誰かに抱きしめられた。
「おい!何をしているんだ!!」
俺を後ろから抱きしめたのは昼に会った老人だった。
「お前、どうしてここにいるんだ!?」
「……」
「とにかくこっちへ来い」
老人は俺の腕を引き、半ば強引に海から引き上げられる。
自分の腰辺りまで海に入っていたことに今更ながら気づいた。
抵抗しようと思えばできたはずだが、何故か体が動かなかった。
半ば引きずられるように浜辺に戻ると、やっと腕が解放された。
「あの、ありがとうございます……」
「そんなことはいい。それよりも、ここで何をしていた?」
「えっと……」
言い淀んでいると、老人は何かを悟ったようで深いため息を吐く。
「とりあえず今日は宿に帰れ。自殺なら今日はやめておくんだな」
「えっ?俺、死のうとしてないですよ」
「は?」
老人は俺を海から引き上げる時に杖を浜辺に投げたようで、それを拾い上げているところだった。
「じゃあ、なんで潮が満ちている夜の海に水着も着ずに入って行ったんだ?」
「…」
「安心しろ、わしには口外するような知人は居らん」
「……海に、受け止めてほしかった」
老人は何も言わなかった。
ただ黙って俺の言葉を待っている。
「海は生きてるんです。だから俺もその一部に、」
「分かったからもう喋るな」
そう言って俺の話を止めさせると、俺の肩に手を置いた。
「何かあったのは分かった。でも気が動転している時に海に入るのはよくない」
諭すような口調だったが、俺の耳は殆ど聞き取れていなかった。
「でも、俺は!」
「明日、またここに来るといい。それまでに心の整理をしておけ」
「……はい」
渋々返事をしたのを確認してから、老人は去って行った。
段々と地平線から日が昇ってくる。
まだ薄暗い空だが、少しずつ明るくなっていく景色が今の俺には眩しく見えた。
「帰ろう」
まだ眠たい目を擦り、欠伸をしながら旅館へ戻った。
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