おやすみの前に
時間はあっという間に流れていく。風呂に入ったあとの夕飯時、昨日の煮魚の残りを食べ切り、「明日からまたレトルトだね」と笑う夜河さんに「明日も何か作るよ」と言ったあと、後頭部と胸の中央に激痛が走った。
「っ……」
息を飲み込み、少しして和らいだ痛みを堪えて夜河さんを抱きしめる。目を瞑ったままでも夜河さんは確かにそこにいた。
「大丈夫?」
夜河さんは心配がピークに達した声で僕の背中をさする。僕はなんとか力を振り絞って痛みを振り払い、大丈夫と頷いた。
「救急車呼ぼうか?八重くん、八重くん……起きて!八重くん!目、開けてよ!八重く……」
心配げに僕の名前を呼ぶ夜河さんの声がだんだんとフェードアウトしていく。そして返事をしようともがきながら、僕の意識は暗闇へと沈んだ。
「時間切れ、でしたか。賭けには失敗……いや、成功しながらも担保と利子の受け取りを蹴るとはなかなか大したものです」
突如として、しわがれながらも朗々とした、低い老女の声が僕の頭の中に響き渡った。その瞬間に、僕は夜河さんのいた世界は過渡期だったと理解した。周りの空間が白一色の部屋へと変貌し、僕はソファに座る一人の形骸と化した。
「あなたがメモの悪魔ですか」
僕が尋ねると、白髪の少女が僕の視界に現れた。
「いかにも、私があなたと契約した悪魔ですよ。あなたがメモに残した魂の売人、
少し引っかかる言い方だと言わんばかりの僕を一瞥して悪魔は一旦は黙り込み、少ししてまた語り始める。
「失礼、あなたは実に素直です。悪いように言うなら単純ですね。そしてあなたは神への立派な反逆者です。それも私たちなんかよりよっぽど立派で、よっぽどか悪魔らしい。でもあなたは人間です」
どういうことか話が読めない。僕はこの状況がかなり気に入らなくて、首を傾げた。
「わかりました、あなたにもわかるように言ってさしあげましょう。まずあなたがした契約というのは、自分の生命を対価として小学5年生の頃に目の前で自殺してしまった同級生、夜河柚月を救うというものです。完全な救いになるべく近い形にするために、できることはなんでもするとあなたは仰いました。ああ、あなたが記憶を取り戻すかどうかの賭けで私が勝てば大切な人に看取ってもらうという選択肢を追加しようと言ったのは私です。あなたは受け取りを蹴りましたがね。そしてあなたが死んだ今、夜河柚月は新しい世界で生きます。小学生のうちに彼女の知らないところで死んだあなたとは一度も関係しない人生を歩み、大切な人も手に入れるかもしれません。そんな損しかない契約を結ぶなんてなんと単純な阿呆でしょうか。まあ、契約はもう取り消せないんですけどね」
「それは違う!」
僕は思わず反駁していた。
「何言ってるんですか、契約は取り消せませんよ?」
悪魔は意地悪な表情で僕を見る。
「そうです、これでいいんだ。僕は末期の神経腫に冒されていました。つまり、そんな先のない命を使って彼女のこの先、長い長い人生を守れるならそれで僕は大儲けだ。契約に後悔はありません」
言い切った僕を悪魔は吹き出しそうな顔で見ていたが、やがて我慢の限界が来たのか爆笑しはじめた。
「ははは……そんなことは初めからわかっていましたよ。いや面白すぎるでしょ、そんなことで悪魔を騙せるとでも?」
「あなたは僕が失意の中で生きていたのを知っていたとでも?それを知った上でこんなことをするならあなたは聖人だ。そして悪魔は聖人の仲間じゃないですよね?」
悪魔はひどく不機嫌そうな顔になって言った。
「挑発したのは謝りますから、その発言を取り消してくれませんか?私は他者の目に映る自分の悪魔らしさが傷つくのが大嫌いなんです」
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