同世界線上のアリア(3)
照明を落とせば、アナウンスがなくとも観客席のざわめきが静まり始める。
期待に満ちた熱い視線が、ライトを浴びたステージ上に集中する。
予想通り、第一曲目の奏者の登場に、観客席から黄色い歓声と拍手が巻き起こった。
この曲では、
コンサート第一曲目は、
黒いスーツを着こなし、客席に向かって完璧な角度でお辞儀をし、しゃんと背筋を伸ばして椅子に座る音葉の姿は、まだ十二歳でありながら誰が見ても
♬フレデリック・フランソワ・ショパン作曲
『
(通称『
右手が黒鍵だけを弾くため、『黒鍵のエチュード』と呼ばれるショパンの練習曲。
開始から右手が勢いよく踊る。高音の黒鍵が、波のように移動しながら三連十六分音符の粒を振りまいていく。
左手は右手よりもゆっくりと。安定した動きでリズムとメロディをつかさどる。
休みなく黒鍵上を踊り続ける右手と、スタッカート&スラーを駆使して歌を歌い上げる左手。それぞれの役割が特徴的な曲だ。
ひとつの休符もなく右へ左へと駆け抜ける右手が生み出すのは、追い立てられるような嵐ではなく、澄んだ水と光の粒がはじけて踊るような楽しげな空間だった。
何より、音葉の顔を見ればわかる。空気を満たす水と光との対話を、誰よりも楽しんでいる。
演奏記号は
ピアノと奏者を照らすライトよりも
音葉だけじゃない。観客の心も
黒玉ちゃんを始め、無数の卵たちがポンポンと楽しげに跳ねながら踊っているのがわかる。
終盤に差しかかる頃。
右手にようやくほんのわずかな休符が入り、この曲唯一の「右手による
無数の黒鍵のうちの、たった一音。
ちょうど失速して「ため」に入る場面で。この一音の存在感が、無邪気に遊んでいるように見えた音葉の横顔に、わずかに
女子高生たちは、さぞ内心でうっとりとしていることだろう。
曲は速度を取り戻し、さらに勢いよく軽やかに、最終小節まで一気に駆け抜ける。
最後の一音がフェルマータの余韻を残し、完全に消えると、音葉が立ち上がって一礼。
再び歓声と拍手の渦が、会場を埋め尽くした。
演奏時間が二分にも満たない、短い曲だ。
おそらく、観客の多くがあまりの物足りなさに、帰宅後に音葉の動画チャンネルを
音葉が選んだこの曲名を、初めて聞いた時。
卓渡は「もっと長い曲でもかまわないんですよ」と伝えたが、音葉の意思は変わらなかった。
「卓渡さんと黒い卵のイメージで選んだ曲だから」
卵が楽しげに跳ねるイメージ。卓渡と黒玉ちゃんの、黒のイメージ。
はからずも、「黒」は音葉自身の服装と髪色、そしてピアノにも通じるイメージ色である。
この日の演奏をもとに、後に「黒鍵王子」と世間から呼ばれるようになることを、この時の音葉はまだ知る
* * *
観客の、特に女子高生たちの興奮がさめやらぬ中、他の奏者たちがステージへの入場を始めた。
ピアノを素速く
卓渡も席を立ち、自分で指揮台を運んで中央に置き、その上に立った。曲はすべて頭に入っているので、譜面台は立てない。
イリアン・パイプスやピアノが出す音に各自が音を合わせ、音程にブレがないか確認する。
個性的な、約二十種の楽器の音色がステージ上を交差する。
卓渡は信頼するメンバーの顔を見ながら、注意深く各楽器の音を聴く。
普段から全楽器の音をたっぷりと聴き込んできた、指揮者ならではのこのポジションが、卓渡はたまらなく好きだった。
「
全奏者と全観客の意識が、一本の指揮棒へと
指揮者だけが味わう、とっておきの瞬間だ。
さあ行こう、
音を聴く者全員の、
* * *
息を吐くと同時に、指揮棒が振り下ろされた。
地響きのごとき強打の連続が、凄まじいスピードでリズムを刻み始めた。会場全体がビリビリと激しく震動する。
拍の
♬アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン作曲
バレエ組曲『ガイーヌ』より
『
この曲は、選曲会議の際に
「全員で思いっきりガーッと音が出せる、
という条件に
ハチャトゥリアンは、チェロ奏者・フェオドラが逃れた故郷の代表的な作曲者だ。
この曲をリストアップしたのは、卓渡ではない。他ならぬフェオドラだった。
「もう過去の国にこだわるのはやめたよ。それに、私は子供の頃からこの曲が大好きなんだ」
ピアノとフルート・アイリッシュフルート・ティンホイッスル・ケーナの管楽器隊によるメロディが始まった。
本来は木琴が奏でる旋律を、ピアノが硬質な高音で木琴のように巧みに表現している。
金管楽器の代わりに火を吹くような迫力音を
ティンパニのようにビートを叩きつけたかと思えば、金管楽器のようにメロディ・裏メロで高らかに吠える。大忙しだ。
中間部のエキゾチックなメロディは、サックスの代わりにイリアン・パイプスが担当。チェロと共に、嵐のようなスピードの中でも失わない、
ハープ・アイリッシュハープ・アルパの三人はこの曲では出番がないので、トライアングルやタンバリンなど、数多いパーカッション楽器の方に加わっている。
「こんなに速い裏打ちなんてできないよー」と泣き言を言っていた
曲は中間部を抜けて、再び冒頭と同じ展開へ。
さらにボルテージを上げて、一気にクライマックスへ。
魂を揺さぶる大迫力の演奏に、誰もが胸を高鳴らせながら引き込まれていく。
最後の一音に至るまで、失速せずに。
わずか二分ほどの、渾身の「舞」が、終わった。
指揮棒を下ろし、大きく呼吸して、客席に向かって一礼。
こんなに心臓が踊っていたことに気づかなかった。久しぶりの、本気で振った指揮の感覚だ。
大きな拍手に包まれると、形容し
やはり、いい。音楽は、いいものだ。
* * *
クラシック・オーケストラの曲を、二十人足らずで、本来は使われない楽器を含めて演奏する。
この試みには、音色や音の厚み、音量バランスなど、
後に、来場した観客たちはこう語った。
「ビックリしたー。二十人もいないのに、まるで六十人ぐらいのオケを聴いてるみたいだった!」
正確には、奏者は十七人。楽器は、スティールパンとドラムセットをそれぞれ一つと数え、他の細かいパーカッションを
通常のオケでは多人数を抱えるヴァイオリン・チェロ・コントラバスは、この楽団では各一人しかいない。その代わり、一人でも派手に目立ってしまう金管楽器がここにはない。
人数を理由に、曲を諦めたり、こじんまりとさせる必要はないのだ。工夫次第で、通常のオケと比べても
卓渡の編曲の腕の見せどころだ。多くの楽器を様々な違うパートに振り分け、演奏中の音量バランスに注力することで、人数の少なさを感じさせない音に近づけていく。
加えて、ここに集うは、誰もが豊かな経験と一流の技術を持った演奏家たちだ。
それぞれが自分に与えられた役目を理解し、音色を使い分け、その曲・その場面に合った
十七人の音が、無限の可能性をもって変化し、広がっていく。
卓渡は指揮者として、この上ない
次の曲は、関川いわく
「もうちょいマジメにゆったり表情付けられるやつ」だ。
豊かな曲想で
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