おっさん運命共同体(2)

『イパネマの娘』が終わり、周囲からの拍手が一通り収まると、バンド名が書かれた張り紙の上に「休憩中」の札がかけられた。


 コントラバスの大きなケースの中に多数のコインが投げ入れられ、バンドリーダーことスティールパンおっさん・音道おとみち豊海ゆたかが、ニコニコと会釈しながら散開する人々を見送っている。


「こんにちは。素晴らしい演奏ですね」


 卓渡たくとがニコニコと紙幣を二枚ほど入れ、音道もニコニコと会釈を返す。


「ありがとうございます。まさか、回収される方からいただけるとは思いませんでしたよ」


「私の気持ちですよ。素晴らしい音楽には、いつまでも残っていてほしいですから」


「なるほど」


 音道の笑顔に、他人には見抜けないわずかな鋭さが通り過ぎる。


 音楽を残してほしい、だと? 俺の大事な卵を回収しようとしてるくせに、ほざくんじゃねえよ!


 とでも言い出しそうな空気を一秒で引っ込めて、音道の両手のマレットが、パラポラポロピレ~と踊るような音をこぼしていく。慣れた手つきで、音の具合を確かめているようだ。


 他の二人のおっさんも、それぞれの楽器のチューニングに入っている。

 コントラバスは、ヴァイオリンやギターのように、ネック部分のネジを締めたり緩めたりして、音の高さピッチをメロディーパートであるスティールパンに合わせていく。

 ドラムは、リム部分の数多いボルトを締めたり緩めたりする。打面の張り具合やバランス、音質などを調整する、根気のいる作業だ。

 

 一方、スティールパンの調律チューニングは、ピアノのように専門の調律師が必要なので、ここではやる必要はない、はずだが……


「パラポロォッ!?」


 卓渡の体から、珍妙な奇声と、熱で沸騰したような激しい心臓の鼓動が爆散した。


「た、た、卵ちゃぁぁん!!」


 スティールパンをパラポロさせている音道。その手元で、楽器の上を白い卵がころころと転がっているのだ。


「マレット音に、聞いたこともないほどの甘美な音が重なってゆく……! ま、まさか、卵ちゃん自ら演奏をしてくれるなんてッ! なんて崇高な、なんてスウィートな調べ! これぞ天上のエンジェルボイスゥーッ!!」


「ああ、これね。見ての通り、この卵はチューニングをしてくれるんですよ」


 今にも悶死しそうな卓渡に、しれっと音道が答える。


「この楽器は日本じゃまだそこまで数が出てないし、調律師も少ないですからね。この子のおかげで、僕は常にベストな音を生み出すことができる。なくてはならない大事なパートナーなんです」


「わかる、わかりますぅ~!!」


 滂沱ぼうだする回収人の真意は、音道には読み切れない。音道にとって、卓渡の存在は、演奏活動の略奪者以外の何者でもない。

 もちろん、卓渡としては、ベストな音での演奏を一曲もらえればそれで十分なのだが。


 債務者と回収人。真実を話せない事情と、今後の演奏活動を賭けた男の意地とが、水面下で絡み合い、両者の間に見えない渦を巻いてゆく。


「そうだ。この後『運命』りたいんですけど、ちょっと振ってみませんか」


「『運命』?」


「まさかそのカッコで、そのヘアスタイルで『運命』振れないなんて言いませんよね?」


「そりゃ、振れますけど……」


 音楽で『運命』と言われれば、ほとんどの者がルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲『交響曲第五番』(通称『運命』または『運命交響曲』)を思い浮かべるだろう。

 言わずと知れた有名曲であり、日本でもオーケストラはもちろん様々なジャンルの音楽にアレンジされて親しまれている。


「じゃ、お願いします。あの曲、最初のタイミングはやっぱり指揮が欲しいですもんね」


 こうして、半ば強引に、おっさんズバンドの指揮を振ることになってしまった。



 * * *



「振るより聴く方がいいんだけどな~」


 願わくば、音道のつやつやな白い卵が調整したスティールパンの音色を、特等席で心ゆくまで堪能したい。そもそも自分が指定した曲じゃないし。


 ここは乗らないと話が進まなさそうだ。渋々しぶしぶながら、卓渡は三人のおっさんの前に立った。

 後頭部から指揮棒を引き抜く。今までかろうじてハーフアップにしてあった髪が、ベートーヴェンさながらにぶわさぁっと波打つ。


 黒玉ちゃんは、白い卵ちゃんと並んで仲良くコントラバス・ケースの上にちょこんと座っている。よーし、パパ頑張っちゃうぞ!


 卓渡の左手が、「休憩中」の札をぶわさぁっと宙に投げ上げる。

 札が落ちるより先に、指先でメンバーの視線を自分に集める。指揮棒を構える。


 曲を始める五秒前。どんな演奏でも、この瞬間だけは誰もが指揮者に注目する。指揮者の呼吸が、動きが、奏者の呼吸にシンクロする。緊張の一瞬。


 卓渡の動きに合わせて、彼らの弓が、マレットが、スティックが動き出す。

 札の落下音をかき消すほどの、劇的なオープニングが奏される。


 の、はずだったが。


「なっ……!?」

と、声を上げかけた卓渡は、ぐいっと声を飲み込んだ。


 確かに曲は始まった。ただし、卓渡の指揮とはまったく違うタイミングで。それでも三人の呼吸はぴったりだ。


 卓渡が一瞬躊躇ちゅうちょしても、演奏は遠慮なしに先に進んでいく。しかもどんどんテンポアップしていく。もちろん三人の息はぴったりだ。


 ハイスピードで繰り出されるスティールパンは、高速の両手の動きでメロディも裏メロも自在にこなす。がっちりと低音部を支えるコントラバスが、コントラバスとは思えぬほどの技巧でとどろきを上げる。ドラマーのバスドラがティンパニさながらに地響きのごとく連射され、シンバルが派手に打ち鳴らされる。


 間違いない。この三人のおっさん、演奏の腕前はプロ級だ。ただし指揮無視ノールックだ。


 再び観衆が集まってきた。誰もが知ってる有名曲が、ド派手なアレンジで楽器を唸らせている。

 三人のおっさんが手札をまざまざと見せつける中、卓渡だけは明らかに浮いていた。


 だが、指揮はやめない。

 どんなに滑稽こっけいでも、どんなにこの場に不要な存在だとしても、一度上がったステージは決して降りない。

 観客に悟らせることもない。はがねのポーカーフェイスで、最後まで指揮者であり続けるのだ。


 序盤、メンバーに振り回されたかに思われた卓渡の指揮は、すぐにメンバーの演奏を理解し、先読みし、メンバーがわざと外そうとしたタイミングさえバッチリと合わせてきた。

 すると、いきなり曲が変化。リムスキー=コルサコフ作曲『熊蜂の飛行』になった。

 超高速で飛行するマレット。まさに熊蜂のように、目にもとまらぬ速さで縦横無尽に飛び回る。


 弓もスティックもフットペダルも、指揮棒さえも、常人にはとても追いきれない速さだ。

 それでも、四人の息は、不思議なほどにぴったりと合っていた。

 外そうとしても外せない。むしろ刹那のズレが自分自身を脱落させかねない。

 いつしか全員が、新参者をステージから蹴落とすのではなく、音楽のロープでこれ以上ないくらいに互いに太く結びつけられ、同じフィナーレへと疾走し続けていくのだった。



 * * *



「いやあ、なかなか、貴重な体験でした」


 終演後。

 卓渡は再び「休憩中」の札を掲げたが、メンバーの誰も反論しなかった。

 たった二曲のメドレーが、この日の体力をすべて奪ってしまったようだ。


「まあまあ、楽しめたかな」


 音道は肩で息しながらも、口調だけはのんびりとした余裕を崩さない。

 手元では、けなげにも白い卵が再びころころと転げ回っている。


 確かに、チューニングは大事だ。あれだけ猛烈な演奏をしていたら、楽器などすぐにどこか狂ってしまっても不思議ではない。アコースティック楽器の痛いところだ。


 スティールパンは、「二十世紀最後にして最大のアコースティック楽器発明」と呼ばれている。この世にアコースティック楽器の基本形はほぼ出尽くしているということだ。

 多くの楽器は、もう何百年もほとんど変わらない形状を残し続けている。この先は、今の時代の材質や製法でどう製造を続けていくか、電子楽器とどう融合させていくか、という発展の仕方になるだろう。


 調律の出来る卵。アコースティック演奏を長く残したいなら、こんなに心強いパートナーはいない。


「感服しましたよ。あなた方の演奏も素晴らしかったですが、卵の存在がどれほど大切か、身に沁みてよーくわかりました」


「そ、そーか」


「だろー、わかってんじゃねえか」


「あんたの指揮も立派だったよ」


 音道も、他の二人も、照れたように口々に言葉をかける。

 音道の肩に乗る白い卵も、どこか嬉しそうだ。


 卵のある人生。

 自分にとって黒玉ちゃんが大切なように、彼らにとっても白卵ちゃんはかけがえのないものなのだ。

 彼らから卵を奪おうとする者がいるなら、自分が全力で阻止してやる、とまで思う。


「物は相談、なんですけどね。その卵ちゃんを回収する代わりに――」



 * * *



「あんた、さては鬼だな? こっちはさっきの曲で疲れ切ってんのによぉ」


 文句を言いながらも、三人は再びそれぞれの楽器の前へとスタンバイする。


「速いのは嫌と言うほど見せていただきましたので、今度は音色の美しさがこれでもかと言うくらいに重要な曲をお願いしますよ」


 ピエトロ・マスカーニ作曲、歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』より間奏曲。

 CMに映画やドラマのBGMにと、あちこちに引っ張りだこの有名曲である。もちろんオーケストラ公演での頻度も高い名曲だ。


 卓渡は、録音を黒玉ちゃんに任せ、自分は今度こそ特等席へ。

 

 始まりは、スティールパンによる独奏。

 美しいメロディーを、左右のマレットが優しく叩き出し、打面から立ち昇る震動が、公園の空気を変えた。

 途中からコントラバスが控えめにベースラインを支え、やがてドラムもブラシで優雅なリズムを刻み始める。


 美しく名高い旋律。三つの楽器が溶け合い、ぽわぽわと心落ち着く音楽のシャボン玉を、いくつも空へと飛ばしていく。

 

「スティールパンという楽器は、本場じゃアグレッシブな演奏の象徴としてうーんと盛り上げてくれるそうなんだけど、日本では癒しの音楽と呼ばれることが多い。こういう曲を聴くと、わかるような気がするね~」


 多くの聴衆と同様、卓渡も思わず目を閉じながら聞き惚れる。


 凝り固まった全身をほぐしてくれるような、そのまま体を横たえて身を浸していたくなるような、至高の音楽であった。

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