都落ち

 二曲目。アルバム発売日にMVが公開されて、n-buna本人のコメントも紹介されたので、それも参考にしていきたい。

 まずは全体の解釈。これは、貴方の心の中から私がいなくなってしまうことを、都から逃れる平氏に見立てている。貴方の心という都を、僕は去っていく。「思い出に都落ち」という詩は、端的にそれを表現している。


 では文学の引用を……といきたいところだが、その前にいくつか気になる詩について言及する。まずは、「海猫」について。もちろん、これは鳥のことである。一番のAメロ、「海猫が鳴いたね 鳥でも泣くんだね」。ここで気になるのが、「なく」に当てられた漢字である。最初が「鳴く」で、次が「泣く」。これを見て執筆者が真っ先に思い浮かべたのが、松尾芭蕉の句「行く春や鳥啼き魚の目は涙」である。芭蕉がおくのほそ道行脚に出る際、江戸の人間だけでなく、心を持たぬはずの畜生もしばしの別れを悲しんでいる。そんな句。これが芭蕉特有の考え・表現方法とは考えにくいので、おそらくこれより前にもそんなことを書いた詩歌はあったのだろう。(執筆者は浅学のために具体例を挙げることはかなわないが)とまあつまり、ここで「鳥でも泣く」としたのは、鳥でさえ離別を悲しんでいる、あるいは自分たちの悲しみを鳥の鳴き声に重ねている、そんなところだろうか。たぶんここは多様な解釈があり得よう。

 次に、「僕は貴方の思い出に ただの記憶に」の部分。これは冒頭で挙げた「都落ち」のことであろうが、気になるのが、僕が思い出、ひいては記憶になると表現していることである。この二者には何の違いがあるのだろうか。それはおそらく、貴方の心持ちであろう。「思い出」は、何か気持ちがのっているような、そんな言葉のように思われる。つまりただの記憶ではなくって、喜びや悲しみや、もしくは憂いといったような、主体の感情に結びついた記憶。それが、ただの記憶に、中立的で心を波立たせることのない記憶に変化していく。僕の、貴方における領分が減っていく。そんなことを詠っている。生々しい、別れの表現だ。あらゆる涙が乾いていく。


 さて、ではようやく引用について。ここでは、万葉集第二巻一一六番、つまり但馬皇女の歌「人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡」(人言を 繁み言痛み 己が世に 未だ渡らぬ 朝川渡る)が参照されている。この歌は、端的に言ってしまえば激しい恋慕の歌である。夫のいる但馬皇女が、異母兄妹である穂積皇子に恋に落ちて作った歌。不倫に近親婚、現代の価値観なら禁断の恋どころではないが、万葉の時代はまだ仏教の規律的な価値観が定着する前だったので、こんな歌は結構見受けられるし、後代の歌人からは高く評価されている。

 しかし、ここで問題なのが解釈である。万葉集の歌だけあって、解釈も様々見受けられる。一応支配的なのは、「人々に噂が広まって会いにくくなった(貴方が私のもとに通いづらくなった)ので、私が貴方のもとに行って、帰りには生涯はじめて川を下って帰ります」だろうか。女性が逢いに行くという危険を冒し、高貴な身分でありながら川を下って帰る。それほどに、恋慕の情は強いのだということである。まあこれも十分納得できる解釈なのだが、執筆者が最初に考えた解釈は、むしろ別れであった。「もう私と貴方は一緒にいられませんので、逢瀬の翌朝に川を渡って往きます」というような。これは執筆者の性分によるところかもしれないが、この解釈もまた十分ありえるように思う。そして、n-bunaも似たように解釈したのだろう。「都落ち」は明らかに別れ・忘れの曲なので、この但馬皇女の歌もそのように解釈して取り入れた。但馬皇女と穂積皇子は人々の噂によって引き裂かれんとしたが、僕とあなたは何によってなのだろうか。飽き、すれ違い、はたまた相性? そのどれであろうと、もうくつがえらない選択であろうと、それは苦しい選択だったに違いない。二番の詩。「貴方も泣くんだね」


参考文献

井手至・毛利正守(2008)『新校注 萬葉集』和泉書院

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ヨルシカ『幻燈』文学的解釈 橘暮四 @hosai

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