ヨルシカ『幻燈』文学的解釈

橘暮四

夏の肖像

 一曲目。大まかな解釈としては、もう別れた貴方との夏の思い出を肖像として描く曲。記憶は次第に掠れ、忘れる痛みを意識しながら筆を運ぶ。思い出の細部が時間に酸化してぼやけていくように、夏木立の合間を往く貴方は木漏れ日に溶けて消えていく。通り一遍の解釈としてはこんなものだろうか。


 さて、題に「文学的解釈」と銘打っているように、ここでは詩に引用されている文学を参考にして解釈をしていく。この曲において引用されているのは種田山頭火。言わずもがな自由律の俳人であり、旅に生きた孤独の俳人であった。具体的な引用句は三句。『草のそよげば何となく人の待つ』『うしろすがたもしぐれていくか』『あなたを待つてゐる火のよう燃える』これらすべての句について解釈を加えてもいいが、ここでは『うしろすがたもしぐれていくか』に絞って解釈していこうと思う。というのも、他二句は基本的に「貴方を待つ」ということを表す引用以上の役割は果たしていないように思われるからだ。『あなたを待つてゐる火のよう燃える』の「あなた」には少し気になるところもあろうが、これは山頭火が『層雲』で親交の深かった友人、久保白船老を指しており、何か象徴的な表現というわけではない。そういった訳で、『うしろすがたもしぐれていくか』の句を中心に話を進める。

 まず、この句自体の解釈を示す。これは、詞書きに「自嘲」とあるように山頭火自らを嘲った句である。全てを失い、時雨に降られながら貧しい行乞の旅を往く自らの後ろ姿を詠んでいる。ここで言う時雨は自身の生き様のメタファーであろう。降っては止みを繰り返す冷たい雨を、自身の行き当たりばったりな旅路に喩えた。そしてこの句の名句たる所以は、山頭火が他者のまなざしを介して山頭火自身のことを描いていることである。後ろ姿を書いたのは、ただの視点の移動ではない。第三者的な、客観的で中立的な「目線」ではなく、みすぼらしい私を見下す他者の「まなざし」をもって、自らの後ろ姿を見ている。そこに、どうしようもなく自嘲の心情が表れているのである。

 では、『夏の肖像』での引用はどうだろうか。これが難しい。三通りの解釈ができる。詩は「少しだけ歩こうか 雨の降る間に その後ろ姿もしぐれていくか」である。「その後ろ姿」とは誰の後ろ姿か。僕か、貴方か、僕たちか。山頭火の句に忠実に従うなら僕の後ろ姿になるが、この句の主題は消えゆく貴方の思い出である。ならば、これは貴方の後ろ姿か。貴方の後ろ姿が時雨に紛れて小さくなっていくように、思い出がぼやけていく。僕はそれをまなざしている。苦しみか、悲しみか、あるいはその両方を含んだまなざしで。無理のない、一本筋の通った解釈である。しかし、まだ少し気になるところがある。詩では「少しだけ歩こうか」とあるので、歩いていくのは僕と貴方の両方だ。山頭火の句は、自分が自分を見るまなざしで書かれていた。それならば、ただ僕が貴方(の思い出)を見るような、一方通行の視線では足りないのではないか。つまり、僕は。僕は、貴方とのいつかの夏を見ている。視線の先には僕と貴方がいる。その僕は僕によって見られている。いや、まなざされている。その思い出はぼやけていく。貴方が夏木立に消えゆくように、僕もまたしぐれて消えていく。ここでは時雨は何の隠喩だろうか。熱しては冷める恋情か、あるいはふっと消える思い出か。あるいは、その両方か。


参考文献

種田山頭火著,村上護編(1996)『山頭火句集』筑摩書房

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