85、約束
「……署名?」
天井や柱に当たって方向転換しながらうねうね伸び続ける巻物の一部を両手に乗せ、夏は青や黄や緑に慌ただしく色を変える眉をぎゅっとひそめた。
黄金に輝く文字列が徐々に露わになっていく。
「そうです。雀の願いをお聞き入れいただけないのであれば、二十四節気、七十二候、雑節――総勢百三名、総辞職させていただきます!」
「そ……総辞職……?」
「ぶぁっかもん!」
秋は血管がはち切れんばかりに激怒した。
「できるわけがなかろう! お前たちは神々が定めた暦なのだぞ! 決められたとおりにしか動けぬ、ただの――」
「人です」
「我々をつくったのは紛れもなく人なのです。暦とは人々が自然と共に生きることを忘れれば消え去るもの。それを知ってただ待つくらいなら、我らとて抗って消えたいのです。友が消え、それを忘れ、拠り所である生き物たちが絶滅していくのをただ見送ることなど、俺にはできない。俺は――俺たちは、
巻物が波打ち、部屋の隅々にまで広がりきった。記入された文字がいっそう強く光を放ち、じわりじわり、名の下のほうから透けていく。
「これは……」
絶句する四季の目の前で玄鳥至も足先から透け始めた。
「願いが受理されたようです。それもそのはず、職務放棄ですからね。俺たちは皆、このまま消えます。ご安心ください、神々はすぐに俺たちの代わりとなる何かを生み出すでしょう。それがどういう形になるかはわかりませんが、四季の皆さまならうまく対処なさると信じています」
「……雑節が、消えていかない」
夏が巻物の終わり、いちばん最後に目を留めてつぶやいた。
「
《私、土用は雑節の長として雀の要望を聞き入れる》
「文字どおり、命がけの嘆願ってわけか……」
夏から表情が抜け落ちた。震える指で消えゆく文字ひとつひとつを追う。
「全員……? ほんとうに? うちの子たちも? ……ああ、あった。
そのあいだにも文字はどんどん薄くなる。玄鳥至も太もも辺りまで見えなくなった。
そこへ雀が弾丸のように飛び出した。
「お願いします!」
「雀!」
部屋の中心に転がり出でて膝をつく。何があっても口を開くなと言い聞かせてあったが、我慢の限界に達したらしい。玄鳥至は慌てて雀の肩を掴んで引き戻そうとしたが、雀はそれを振り払った。
「お願いします! おれを人に戻し、またここへ帰らせてください! 必ずやり遂げます! 暦のみんなの未来を繋いでみせます!」
「ええい、黙れ! 今それどころではないわ!」
秋の大喝一声はすがりつかんばかりの雀を容易に黙らせた。やはり四季だ、それほどの迫力があった。
うつむいた夏は「面白い」と、か細い声でささやいた。
「実に面白い。わたしはどんな時も楽しむのがモットーなんだ。これもまた綺麗で素晴らしいね。文字がキラキラと光って……どんどん薄く……」
カッと顔を上げた夏の形相は阿修羅の如く、自慢の虹色の髪も怒髪衝天して天井付近にまで燃え上がった。
「よくもわたしの部下をそそのかしてくれたな!」
四方八方に火花が飛び散り、雀はひっと後退って背中から転げた。玄鳥至はすばやく雀を背後にかばいその時を待った。夏は声高に宣言した。
「夏は雀の要望を受け入れる!」
夏季の暦たちの名の消えた部分がもとに戻った。
「秋もだ」
と、喉から血が出そうなひび割れ声で老君も後に続いた。
「承諾しよう。それで暦が滞りなく回るのならば」
「冬も許可する」
夏と秋が観念するやいなや冬も倣った。
夏季、秋季、冬季と暦たちの名がもとの金字に戻り、玄鳥至はもはや浮かぶ生首の状態で春を見つめた。
「卑怯なことを……」
春は睫毛を伏せて微笑んだ。
「わたくしにはこれがいちばん堪えると知ってのことですか」
「いいえ」
玄鳥至は消えゆく口でなんとか返した。
「俺はただ、雀に賭けてみたくなったのです。俺は春季の暦なので、人がもたらす春を夢見るのも悪くないと――」
「つばきさん! つばきさ――」
雀の声が何かに吸い取られるように消えていった。下からくる眩しさに絶えきれず目を細めると、視界が真っ白に塗りつぶされた。
――おや?
まばたきを繰り返しながら目を開けて首をかしげる。春の宮の廊下だ。薄布がはためいている。どうやって戻ってきたのだろうか。
床板がやわらかい。綿を踏んでいるようである。体もふわふわとして軽い。色彩は霞がかかったように茫々として、音はこもって鈍く聞こえる。においはない。鼻がきかなくなっているようだ。
――これは、まさか消えたか。……春季の他の者も?
廊下の先、左側の布が大きく膨れ上がって誰かが出てきた。
淡い茶髪を肩につくかつかないかくらいまで伸ばした青年である。若葉色の春セーターにジーンズ、
「つばき」
青年が声をかけてきた。はしばみ色の瞳がやわらかく三日月になる。
「よかった。君を探していたんだ」
「お前、今日は任期最終日だったろう。こんな所で油を売っていないで部屋に戻れ。
「ひどいや。これが最後だと思うから来たっていうのに」
「最後?」
「誰にも内緒にしてほしいんだ。ね、お願い。春さまにも言わないで」
「なんだ。いったいどうしたと言うんだ」
いつもと様子の違う【 】に玄鳥至は何やら胸騒ぎを覚えた。
「約束してくれるんだね」
玄鳥至が点頭すると、青年は安心したように吐息を漏らした。形良い唇が弧を描く。
「ぼくは君を愛している」
それを聞いた途端、玄鳥至は声を出せなくなった。口だけが飢えた鯉みたいにぱくぱく動く。
――俺には、わからない。
だが自分の耳に聞こえていないだけで、相手には音として届いているようだった。
「つばきはわかろうとしないからでしょ」
【 】は痛みを堪えるように下を向いたが、再び目を上げると穏やかに続けた。
「そんな顔をしないでよ。ぼくの気持ちも君の拒絶も自然に生まれたものなんだから、ぼくも君もこれでいいんだよ。……あのね、つばき。これから暦は大変なことになるかもしれない。でもきっとなんとかなるよ。ぼくはね、いつの日か必ず、みんなの救世主が現れると思うんだ。その時は君も面倒くさがらないで手を貸すんだよ。……ぼくの気持ちに応えられないなら、いつか現れるその誰かに応えてあげて。約束だよ」
青年は「じゃあ、またね」と言ってあっさりこちらに背を向けた。愛を告げておきながら、後ろ髪を引かれる様子もない。玄鳥至は焦って手を伸ばそうとした。どうしたことか、腕も体に縛り付けられたように持ち上がらない。
――待て、お前は――。
「ああ、そうだ」
青年は立ち止まった。
「スバメは君にあげるよ。ちゃんといやな顔をして見せてね」
こちらに向いた瞳は安らかだ。恐れはない。恐れているのは彼ではなく自分のほうだ。
薄布が激しくはためいている。目の前を覆うように広がり、【 】の背中が飲み込まれていく――去って行く。
――だめだ、行くんじゃない! 戻ってこい……!
もう、届かない。
「――待て、雀! この悪趣味め!」
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