86、春の願い
「――待て、雀! この悪趣味め!」
「ご、ごめんなさい……」
水面に顔を出した時のように、感覚のすべてが唐突に蘇った。何が起こったのか、夢か現か幻か――目を白黒させてあえぐように激しく胸を上下させた。
「つばきさん、大丈夫ですか。つばきさん?」
木目の天井がクリアに見える。日の光をたっぷりと浴びた香ばしい風が頬をなでる。春の宮の風だ。視線を下げると、右に雀が――
「ここは……?」
声も出た。嘘のように簡単だった。
「春の宮の救護室です。他のみんなはすぐにもとに戻ったのに、つばきさんだけ意識を失ったまま目が覚めなくて……。おれがどんなに怖い思いをしたかわかりますか。ほんとうに無茶をするんだから」
雀は恨めしそうに唇を尖らせた。
「それに、悪趣味って……いったいどんな夢を見ていたんですか」
――ああ。……ああ……。
はっとして上半身だけで飛び起きた。頭が揺れて、またベッドに倒れ込んだ。
「つばきさん! 急に起きちゃだめですよ!」
「今何時だ、いや違う、あれからどれだけ経った。お前、時間は大丈夫なのか」
「落ち着いて、おれは大丈夫ですから。今は夕方の五時だから……あれから七時間くらいですかね。まだ節分の日になってませんよ。そりゃあもう、大騒ぎだったんですよ。夏さまはすねて夏の宮を冷夏にしちゃうし、秋さまは秋の宮中の和菓子をやけ食いするし、冬さまは――あの人はちょっと機嫌が良かったな。だけど、春さまが……」
心の臓がどくりと鳴った。
「何かあったのか」
「春さまが、自室に籠もってしまわれて。つばきさんと二人でお話ししたいそうです。いつもふわふわとしたお方なのにとても気落ちしてらして……。春の宮の皆さんも今の春さまのご様子は予想外だったみたいで、どうしたものかと途方に暮れているんです」
玄鳥至は雀の制止を振り切って救護ベッドから飛び降りた。
「つばきさん!」
「お前は
話さなければ。あのお方の真意を今こそ聞かなければ。玄鳥至は主のもとへ急ぎ向かった。
広大な春の宮の敷地に根を張るように伸びる寝殿造りの奥には池があり、そのすぐそばに春の居室はある。
無人の廊下を抜け、池の上に張り出すように造られた釣殿に主はいた。金と橙の夕暮れに、池を埋め尽くす河津桜の花びらがもとの色もわからぬほど染まりきっている。
春の女神は同様に染まった十二単とやわらかな髪を後ろに流し、何をするでもなくぼうっと景色を眺めていた。その姿は朝靄のように儚く、玄鳥至の足をしばしその場に縫いとめた。
「お呼びと伺いました」
声をかけても春は振り返らない。ちゃぷんと鯉の尾の跳ねる音がした。
「……十二年前の」
と、春がささやいた。
「
「はい」
玄鳥至は懺悔するように面を伏せた。
「大方そう致しました。あなたさまは暦に異変が起こることを予期しておられ、できることなら止めたいとお考えでした。それで俺は……」
「なぜ
衣擦れの音に玄鳥至は重苦しく面を上げ、と胸をつかれて息をのんだ。
春のなめらかな頬の上をはらはらと雫がこぼれ落ちていく。背後ではぱらぱらと春雨が降り、桃色の花びらが池の色をさらに濃くした。
「あなたはわかっていたのでしょう。あの子の変化に気がついていたけれど、見て見ぬふりをしたのだわ。どうせ応えることはできないのだからと、あの子と向き合うことを面倒くさがった。わたくし、これまで何度も別れを経験してきたけれど、あの時ほど胸が張り裂けそうになったことはなかったわ。でも今日はもっと悲しい思いをしました。どうしてだかわかる?」
玄鳥至は心の臓を貫かれたような衝撃を受け、その場にがばっとひれ伏した。
「おっしゃるとおりです。それどころか、あの時のことを都合良く忘れてしまいました。けれどそのためでしょうか、俺の中に残ったあいつに対する後悔が、自分を非難してやまない心が、此度の雀に繋がったのです。……どうかお許しを」
「危うく皆、消えてしまうところでした。消えればどうなるか、そこまで考えましたか」
「はい。しかし導き手がなくなるだけで、生命そのものがいきなりどうこうなるわけではありません。人が自然を愛する限り、上界の神々は俺たちに代わる何かを生み出すことでしょう」
春はゆるく頭を振った。
「聞いているのは、あなた方の行く先のことです。消えればどこへ行くと考えますか」
「さて、見当もつきません。あまり興味がなかったもので……」
「困った子ね。もう少しいろいろなことに関心を持ったほうがいいわ」
春の声がいつもの温かな音色に変わり、玄鳥至は肩の力を抜いて身を起こした。
「そうですね。最近は自分でもそう思います」
「まあ」
春は袖で口もとを覆い、また下ろした。
「消えてもどこにも行きませんよ。この世界にとけ込むだけです」
「雀始巣も、過去に消えた仲間たちも?」
「ええ。世界とひとつになったことでしょう」
「では、もう二度と会えませんね」
「あら、人のような考え方をするのね」
春は可笑しそうに玄鳥至の表情を観察し、池から上ってきた
「いつだってそばにいるわ。わたくしたちも姿かたちを保っているだけで、はじめからこの世界の一部なの。ただ、消えれば意識も個も何もかもがいっしょくたになってしまうから……、二度とこうしておしゃべりすることはできないわ」
「春さまはそれをおそろしいと思われますか」
「こういうのは『寂しい』と言うのです」
床に散る花弁が風によって再び舞い上がり、どこかへ連れ去られていった。残り香はない。あるのはただただ春という季節の香りだ。期待と平安と、ほんの少しの切なさを含んだはじまりの季節。
玄鳥至はすっきりとした気持ちで、いつもの調子を取り戻して言った。
「いつからでしょうか。俺たちは忘れづらくなったように思います。前任の雀を思い出しても記憶を留めているようです。なぜでしょう」
「さあ、それは神々に伺ってみなければわかりませんね」
春はまた袖で口を覆った。玄鳥至は続けて問う。
「雀はどうして命を取られなかったのでしょうか。殺すことに失敗して一年の猶予ができるなんて、ずいぶんとあいつに都合のいいような気がしますけど」
「それも聞かなければわからないことね。教えていただけるかどうかは別だけれど」
「冬さまはこの一年、よく春の宮にいらしていたそうですね。そんなに仲がよろしかったとは存じ上げませんでした」
「あなたの知らない交友関係をわたくしはたくさん持っているのです」
玄鳥至は目の前の女神を見た。春の化身はただ微笑んでいる。
――食えないお方だ。四季の中の誰よりも。
「春さまは、なぜ俺に雀を託したのですか」
春は朝露を弾いて咲く野花のように破顔した。
「はじめに言ったでしょう。適任だと思ったからよ」
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