81、進捗
「兄さんってさ、僕のことをあまり弟だと思っていないでしょ」
兄のベッドを陣取り、つばさは不機嫌まる出しに足を組んでいる。
「そんなことはない」
「嘘つき。そのくせ雀くんのことは実の弟みたいにかわいがるんだから」
「なんだ、妬いているのか」
「妬かないと思った?」
玄鳥至は目をしばたたいた。つばさは盛大に嘆息した。
「兄さんはツバメだった頃のことを憶えていないんだっけ。僕は少しだけど憶えているよ。――あの日は冷たい雨が降っていた。六月も終わりなのにすごく寒くて、兄弟姉妹で身を寄せあって震えていたんだ。父さんと母さんは狩りに出ていていなかった。そのうち僕は、一羽が長いこと動いていないことに気がついた。おそろしくてたまらなかったよ。このままじゃ僕も……ってね。実際、間もなく意識が朦朧としてきた。ああもうだめだと思った。その時だよ、ひと月先に巣立っていた兄さんが飛んできて、僕らを翼の中に入れてくれたんだ。暖かかった……」
玄鳥至は「ふむ」と相槌を打った。先日記憶に蘇った光景のことを思い浮かべた――が、
「まったく憶えていないな」
「兄さんらしいや。あのね、僕はとても安心したんだよ」
「それはよかった」
「心がこもってないよね。腹立つなあ」
「前から不思議に思っていたんだが……お前はどうして記憶が残っているんだ」
つばさはよくぞ聞いてくれましたと顎を上げた。
「忘れたくないって念じているんだよ。それも毎日ね。忘れたくない、あの記憶だけは絶対に憶えていたいんだー! って」
思わず玄鳥至は身を起こした。
「そんなことで憶えておけるのか」
「そんなこと、ねえ……」
つばさはわずかに苛立ちを見せたがそれはほんの刹那のことで、力が抜けたように肩を丸めた。
「絶対に忘れたくないなら、強く念じ続ければいい。思いが強ければ神さまはきっと聞き届けてくださるよ」
「それは雀にも言えるだろうか。人として再び目を覚ました瞬間にはもう、こちらのことを忘れているのではないか。念じるひまなどなく」
「さあ、そこまではわからないよ。一か八かやってみればいいんじゃない」
つばさは軽やかにベッドから離れると、大股で兄を横切って出口に向かった。
「おい、進捗をまだ……」
戸の前で立ち止まる。しかしそのまま動かずこちらを見ない。
「僕の持つ前任の
言葉を切ると、つばさはくるっと振り返った。心持ち眉尻が下がっている。
「雀くんはきっと大丈夫。半年も兄さんの翼の下にいたんだ。彼は力強く飛び立って、立派になって戻ってくるよ」
「ああ」
「気候の変化についていけない渡り鳥は自ら生きる場所を変えていく。環境を変えることは危険を伴うし、これまで積み重ねてきたものを全部捨てることになるかもしれない。相当な勇気がいることだと思う。進むは勇気、退くこともまた勇気だ。……彼はね、自ら難しい道を選んだんだ。僕はそれを評価する。なかなかできることじゃない」
でも――と、つばさは今度こそ取っ手に手をかけ、いつものようにさわやかに嫌味を言った。
「兄さんの金魚の糞が戻ってこなくても、僕としてはいっこうに構わないけどね!」
「つばさ」
出て行こうとする弟を呼び止めた。進捗――そう言いたいが、それが今はふさわしくないことくらい心得ている。
たまには兄弟で食事に行ってもいいかもしれない。無論、おひとりさま飯なんかではなく。
欲していた進捗は意外な者によってもたらされた。
ここは春の宮、
その部屋の中央で、
「――以上だ。もういいだろう。俺は戻る」
言うなり霧となって戸の隙間をすり抜けていった。彼の足に登ろうとしていた三毛が目を真円に見開いて毛を逆立てた。
男の隣で終始満面の笑みを浮かべていたのは
「彼、よく働いてくれて助かるよね!」
「……お前、何をしたんだ」
「別に何も悪いことはしてないよぉ」
鶺鴒は鳥肌が立つような上目遣いで言った。
「ただね、ほら、冬さまと
冬は蒙霧の鬱屈した心情に気がついていた。つまり「調子に乗っている新入りの存在がただただ面白くない」という子どもじみた嫉妬心に。
秋の宮に潜伏できない冬は秋季に手駒が欲しかった。そこで蒙霧と取引をした。結果、蒙霧は雀を傷つけようとしたがうまくいかず、冬のほうは雀をたきつけて囲い込むことに成功した。
「つまんない理由だったよ」
そう吐き捨てて、鶺鴒は猫の玩具の柄を持って床すれすれにこちょこちょ振った。物陰に隠れていた白猫が釣れた。
「蒙霧ははじめ拒否したらしいんだけどね、冬さまに騙されるような形で雀くんと出会って、
「それがあいつの弱みになったのか? それでこちらに従うとは到底思えないのだが」
すると鶺鴒は口が裂けんばかりに凶悪な笑みを浮かべた。
「蒙霧って昔からボクのことが怖いんだよ。あいつがボクの
玄鳥至の表情を見て、鶺鴒は持っていた玩具を差し出した。
「さあ、お次は君の番だよ。もっと危ないことをするつもりのつばきくん」
玄鳥至は黙ってそれを受け取った。猫たちはこちらの出方を窺っている。
「これで秋季は全員こちら側についた。ただ、皆が皆心から賛同したわけじゃない。これだけの人数がいて意見がぴったり一緒になるなんてことはほぼ不可能だ。譲歩してくれたんだから、ボクたちは責任を持たなきゃいけないよ」
「当然だ」
すばやく玩具を動かした。白も三毛もキジトラもパッと振り向いた。
「大丈夫、必ずうまくいきますよ」
三匹をほぼ同時に相手する玄鳥至の後ろで霞が穏やかに太鼓判を押した。
「そういえば、
鶺鴒のひと言と同時に玩具が猫パンチで叩き飛ばされた。不吉だ。
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