80、小寒――硯



 小寒【しょうかん】(一月六日~二十日頃)


 外ではちらちらと雪が舞っている。雀は小寒の作業場の休憩室で囲炉裏にあたり、求められて知識を披露していた。


「小寒の初候は芹乃栄【せりすなわちさかう】、せりは一箇所に競うように生えることからその名をつけられました。七草粥で有名なセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ。春の七草には邪気祓いの力があって、無病息災を願って食べるものです。贅沢なおせち料理で疲れた胃腸を休める効果もあります。おれ、七草粥ってあんまり好きじゃなかったんですけど、食べるべきなんだなあって思いました。昔の人はすごいですね。

 次候・水泉動【しみずあたたかをふくむ】、地中の凍っていた水が溶け始める頃。十一日にあるのは鏡開きですね。鏡餅の〈鏡〉は円満を表しています。〈鏡開き〉という言葉は、〈切る〉とか〈割る〉を嫌った武家社会が末広がりとして縁起の良い〈開く〉を選んだから。鏡餅を食べることを〈歯固め〉と言い、歯を丈夫にして長寿を願うことに由来するそうです。これ、すごいですよね。鏡餅って縁起物の塊なんですね。

 末候・雉始雊【きじはじめてなく】、キジの求愛の季節です。雄がケーンケーンと鳴きながら激しく羽ばたいて雌にアピールします。そのはばたきを〈ほろうち、、、、〉といって、ケーンという鳴き声とほろうち、、、、で〈けん、、ほろろ、、、〉という拒絶の言葉になりました」


「あらあ、教えることがないじゃない」


 半白の髪を無造作にひとつに結わえた小柄な老女、水泉動しみずあたたかをふくむはしゃがれ声でケタケタ笑った。


「この子ったら、肝が据わっているじゃないの。なんにも気になりませんって顔してさあ。あたしたちのほうがそわそわしちゃって、気が気じゃないったら」

「『勝負は節分の前日。それまでに手はずを整える』――つばきはそう言っていたが……おれぁ自分の任期にこんなに身が入らないのははじめてだよ、まったくよぉ。つばきのやつめ!」


 おやっさん調子で豪快に笑いながら部屋に入ってきた男は芹乃栄せりすなわちさかう、愛称は芹栄きんえいという。作務衣を着、頭にはバンダナを巻いている。大の酒好きで、仕事終わりの一杯が毎日のささやかな楽しみだ。


 芹栄は手に持っていたすずり水泉しみずに渡した。


「ばァさん、これはどうだね」


 小寒の天地視書てんちししょである硯。これは硯そのものに景色が映るわけではなく、った墨を使うことによって開かれる。作業の分担は、力のいる彫りまでは男性、磨きから仕上げは女性が行う。水泉は渡された磨き前の硯を――松竹梅が彫られ匠の技が光る逸品だ――ちょっと見ただけで首を振った。


「だめだね、これじゃふつうだよ。磨きだってあたしがやればいつもと同じような物ができるだけさ。やっぱり特別な品は、小寒さまじゃないとねえ」

ちいが呼びに行ってどれくらい経ったかね。……あれ、おいおいもしかして、もう一刻経つところかよ」

「やれやれ、いつお戻りになられるのやら。どれ、今どこにいらっしゃるか見てみようじゃないか」


 水泉が後ろの棚から完成品の硯と墨を取り出すと、ガタン、天地視書より先に引き戸が開いて、戸口にひょろりと長い二人の暦が現れた。


 海苔のようなおかっぱ頭、顔も背格好も瓜ふたつの両性体、二十四節気・小寒と大寒だいかんである。二人してぶつぶつ文句を言いながら粉雪と共に入ってくる。その後ろから、赤いストールを首に巻いた黒緑の髪の男――秋の宮で鶺鴒せきれいと共にいた雉始雊きじはじめてなくが敷居を跨ぎ、疲れた様子で戸を閉めた。


 なんとなく女のほう――小寒が首をゴキゴキ鳴らした。


「なんなんだろう、ほんとうに。一年のうちに数えるほどしか顔を合わせないっていうのに、部下使いが荒いったらない」


 なんとなく男のほう――大寒も肩をゴリゴリ回した。


「まったくまったく、まったくだ。冬の宮の境界線なんてはじめて見たよ」


 小寒と大寒は交互に話す。声質まで似ているので、そんなふうにしゃべられるとどっちがどっちかわからない。


「冬さまは他宮との境界線を目に見えるようになさったんだよ」

「それで何をしたかってね、境界線に精霊たちを配置したのさ」

「許可なき者が近づけば、より強く激しく吹雪くように」

「地を凍てつかせ、空気はよく切れる刃のように」

「漏れれば地上に大寒波をもたらすけれど、冬さまは『それでいい』の一点張りだし」

「『春を前にどっと寒くなれば、木々も見事な花を咲かせよう』」

「でも寒波は漏れないに越したことはないからね」

「それを防ぐための精霊配置というわけさ」

「それで私たちがその采配を振るったわけさ」


 二人は「ああ、くたびれた」と締めくくり、そろって熱い茶を所望した。


「他の四季の皆さまはさぞやお怒りでしょうな」


 芹栄が茶葉の缶の蓋を開けながら言うと、二人はまたもや代わりばんこに話し始めた。


「夏さまがね、境界線の向こう側で光背こうはいみたいなものを出し始めちゃって」

「それがもう熱いのなんのって」

「毎日この調子になるのかね」

「つばきはちゃんとやってるんだろうね」

「やってくれていますよ」


 すかさず雀が言った。


「ずっと飛び回っているので、心配になるくらいです。あの人は、きっと今だって――」


 雀はまぶたの裏にしゃんと背筋を伸ばして颯爽と歩く教育係を思い描いた。




 一方その頃、玄鳥至つばめきたるは猫背になっていた。


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