79、お前は人だ



 雀は祖父のこけた頬に手を添えた。


「じいちゃん、見ないあいだに年取ったな……」

「雀」

「はい」

「頑張ったな」


 雀はそのひと言に動きを止めた。玄鳥至つばめきたるはもう一度、一言一句に想いを込めて、


「頑張ったな」

「……頑張ったのは、良くなかったと思います」

「そうだろうか。俺はそう思わない」

「そのせいで母さんを苦しめました。自分を追い詰めました」

「聞くが……」


 と、玄鳥至は片手を伸ばし雀の肩に手をかけた。


「お前の父が亡くなった当時、お前は十歳だった。おじいさんを想って一緒に暮らし始めたのは十一歳だ。お前は自分ばかりを責めるが、俺からすれば、なぜ大人がもっと干渉しなかったのか、それが疑問だ」

「大人というと母さんですか、先生ですか」

「母親のほうだ」

「母さんはよくやってくれていました」


 雀はにわかに顔を赤くした。


「おれが未熟だったんです。母さんはずっとおれのことを気にかけてくれていました。お金にも不自由してません。……ああ、おれの話し方が悪かったのかな。つばきさんは母さんの苦悩を知らないからそう思うんですよ」

「お前の母を否定する気はない。お前の母もまたよくやった、いや今もよくやっている。だがこれだけは言わせてほしい。お前の母は、お前のそばにいるべきだった。なぜならお前はまだ子どもなのだから。経験値も責任の重さも、大人とは違うんだ」


 雀の体をこちらに向かせる。左右の肩を掴み、しっかりと顔を見る。


「お前の家族の問題だ。とやかく言うつもりはない。それに、これに正解はないと思っている。ただ、お前のおじいさんが心を病んでしまったように、お前の母も、そしてお前も、正常な判断をしにくい精神状態だったことを考えてみてほしい。誰か一人が悪いわけじゃない。その負のループからいち早く抜け出すことのできたお前の母は気骨のある人だ。

 しかしそれはお前にだって言えることだ。お前はよく我慢した。自分を責めず、その忍耐力を誇ってくれ。よく耐えた。よく頑張った。そしておじいさんだって闘っている。年を取っているからお前や母さんほど瞬発力も持続力もないが、同じように闘っているんだ。お前は敏いから、そのことを理解しているから、おじいさんのそばにいたんだろう?

 だが無理だと思ったら距離を取れ。生きるために生息地を変えることは野生動物だってやっている。自分を責める必要はない。お前がどれだけ強く優しい心を持っているか、俺は――俺たちはちゃんと知っている」


 掴んだ雀の肩がぶるぶる震え始めた。時々引き攣ったようにしゃくりあげる。「うっ、うっ」と苦しそうに息をしながら、雀はなんとかそれを口にした。


「づばぎざん」

「なんだ」

「づばぎざん、ごめんなざい」

「……何がだ?」

「前に、秋の宮の回廊で、ひどいごど言っで、ごめんなざい」


 そこからは幼子のように声を上げて泣きじゃくった。

 玄鳥至はぐちゃぐちゃになったその顔が可笑しくて、愛おしくて、不謹慎かもしれないと思いながらも破顔した。


「今それか!」




 場所を変えよう、そう言って縁側に移動した。

 東南向きで、冷たい空気に澄み渡る青と暖かな日差しがいかにも希望に満ちた正月らしい。庭の隅に咲くのはサザンカだ。混じりけのない濃いピンクはこの寒さの中でくったくのない笑みを見せる。冬が苦手なツバメからすれば驚嘆に値する花だ。今は実体化していないから問題ないが、この季節に実体化して地上に降りるのは暦になった今でも得意ではない。今も枯れた草を見ているだけで小さな身震いが起きた。


「あれ、寒いですか」

「いや」


 雀は不思議そうにしたが、真っ赤に腫れて重そうな眼を玄鳥至から庭に移した。あぐらを体育座りにした楽な姿勢で、肩の力も抜けている。


「おれね、暦の世界に来て、人付き合いを楽しめるようになったんです。相手のことを考えるのはもちろん大事だけど、自分のことをもっと解放してやったほうがいいんじゃないかって思えるようになったから。……この一年、たくさん勉強しました。自分を、相手を認め受け入れること。驚きすらも楽しむ心を持つこと。内なる毒を恐れないこと。時には自分に目を向け、労わり休めてあげること。……たくさんの実りを得ました。豊作です。これならきっと無事に冬を越せます。ほんとうに、暦のみんなには感謝しかない」


 どこか遠くを見るようなまなざしをする雀の横顔を玄鳥至はじっと見つめた。


「人に戻るか」

「戻れますか」


 即答だった。ほらな、と玄鳥至は思った。


「ああ」かすれた吐息になったので咳払いをひとつ。


「……お前が望むなら、俺たちは必ずお前をこの家へ帰そう。皆そのために動いてきたのだから」


 雀は黙り込んだ。なぜだろう、うれしがる様子をちらりとも見せない。


 すると雀は予想外のことを言い出した。


「おれ、ほんとうは戻りたくないんですよね」

「……何?」

「だって考えてもみてくださいよ。このまま暦になったほうが幸せだと思いませんか。優しい世界で神さまの仲間入りして、誰も彼もから必要とされて、地上の人々の役にも立てて。人に戻ったらどうなりますか。母さんと向き合って、じいちゃんと向き合って、友だちとの関係も一からやり直すつもりで向き合って。っていうか、まずはリハビリだ。弱った体を動かせるようにならなきゃいけない。勉強だって一年遅れているし、リハビリにどれくらい時間がかかるかわからないし、それでもっと復帰が遅れるとしたら……うわあ、いやだな。このまま暦になっちゃだめかなあ」


 玄鳥至は絶句している。なんとも言えない表情の教育係に、雀は茶目っ気たっぷりにえくぼをつくった。


「がっかりしました? でもこれもおれなんですよ。つばきさんはおれを買いかぶりすぎです。さっきたくさん褒めてもらったのに、台無しにしちゃうようで申し訳ないけど、おれは全然頑張り屋じゃないですよ。できれば楽したい!」


 雀は立てた膝の上にぽてっと横向きに頭を乗せた。やわらかな目もとを残したまま自嘲するように問う。


「つばきさんがおれだったら、戻りたいですか」

「……正直に言ってもいいか」

「どうぞ」

「……戻りたくないな」

「ですよねー」


 雀は眠る前のように穏やかな表情で、ともすればいつでも激しい感情が表に出てきそうな深い色の瞳で言う。


「つばきさん、おれ、雀始巣すずめはじめてすくうになれますか」

「それはお前の頑張り次第だと前にも言ったが」


 雀は笑った。顔を上げて玄鳥至と視線を合わせる。


「意地悪で、ね。……自然の理を愛せる者が暦なのだと、あの時あなたはそう言った」

「よく憶えているな」

「つばきさん、おれ」


 雀の両の黒水晶がたちまち燃え上がるような熱を帯びた。


「おれ、人に戻ります。でも雀始巣にもなりたい。両方は無理ですか」


 玄鳥至はそれが本気だとわかっていながら冗談として受け流した。


「滅茶苦茶を言うな」

「でも!」


 人の子は必死に言いつのる。


「でも、暦の世界を見たのはおれだけだ。あそこで何が起こっているか知っているのはおれだけだ! それを人に伝えなきゃいけないと思う。このまま雀始巣になったら何も変えられない。自分を変えることだってできない!」

「だったらお前は人に戻って生を全うする他ないだろう」

「いいえ。もうひとつ手があります」


 雀は力強く言い切った。


「俺は人に戻ります。人生を終えたら、今度は暦に戻ります」

「馬鹿な!」


 玄鳥至は抑えきれずに声を荒げた。


「許されない。お前の寿命はどのくらいだ? とんでもなく長生きすれば、百年近く待つことになる。それまで雀始巣は空席になるんだぞ。それこそ、ひとつの暦が消えてしまう!」

「消えません。おれがさせません。人々が暦を忘れなければ、暦は存在し続ける。おれはなんらかの形で発信していく者になる。今は漠然と自然環境に関係のある職に就くことしか思い浮かばないけど、他にもいろんな道があるはずなんだ。もっと勉強して、必ず暦のみんなを救ってみせる。雀始巣になるのはそれからでも遅くないと思う」


 雀の瞳は弁を振るうほどに力を得てますます輝き、玄鳥至はそれに怯んで頭を抱えた。


「それまでどうやって席を空けておけと言うのだ。無理だ。お前が去ったその瞬間から、俺たちはお前との日々を忘れていく。お前だって人の体に戻って目を覚ました瞬間に、一切合切を忘れているに決まっている。無理だ、どう考えてもできっこない!」

「そうさせないようにできませんか?」

「無理だと言っている!」

「おれは無理じゃないと思うんです。だってこうなることなんて、きっと神さまは最初からお見通しですよ」


 玄鳥至は呆れ返って天を仰いだ。あんなに悩んだ自分が馬鹿らしい。こいつは繊細に見えてずいぶん強かだ。


 雀はここでちょっと不安を覗かせた。


「そもそも戻れればの話なんですけどね……」


 最初はじわじわと、それがだんだん大きなものに変わっていって、玄鳥至はらしくないと思いながらも腹を抱えて笑い転げた。


 雀は呆気にとられてぽかんとしている。少々不気味そうでもある。

 慣れない大笑いに咳き込みながら玄鳥至は縁側に脱力し、ごろりと反転して空を仰いだ――飛んでいる時のように気持ちが良かった。


「強いな……」


 額の上に腕を乗せる。すらすらと言葉が出てきた。


「人は強い。お前は人だ、雀。お前ならなんだってやれる。俺はお前を信じるよ」


 腕の下から目が合った。雀は唇を震わせた。


「おれもあなたを信じています」


 チュン、と庭で鳴き声がした。

 初雀はつすずめ。二人同時に言って吹き出した。うんちくは必要なさそうだ。

 

「それじゃ、ひとまず帰るとするか。冬さまに人への戻り方を聞いてみないとな。それ次第では俺の一計も必要なくなるし」

「あ、それなんですけどね」


 雀がえくぼの辺りをぽりぽり掻いた。


「四季全員の承認を得ないと、戻れないらしいです」

「え」


 どうやらまだまだ前途多難だ。


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