78、雀の記憶



 冬枯れた庭木が物悲しい。

 玄関の引き戸をすり抜けて、雀を先に狭い廊下を奥へ奥へと進む。明かりのない家の中は朝といえども古い日本家屋らしく薄暗い。住人のいる家にしては個人のにおいが淡く、染みついた線香の香りが哀愁のようなものを抱かせる。


 突き当たりの戸襖を抜けると目的の部屋に入った。南向きで明るく、年代物の棚や箪笥の上にはごちゃごちゃと本や箱が積まれて賑やかなのに、どこか寂寞じゃくまくとした六畳間だ。南向きの窓に頭を向けて設置された重量感のあるベッドの中、色褪せた花柄の掛け布団に包み込まれて眠る人物に二人は近づいた。


 頬はこけ、首も皮ばかりで細い。夢の中でもつらい思いをしているのか、眉間にしわが寄り、歯を食い縛るようにして口を引き結んでいる。短いごま塩頭の白が外からの光にキラキラと輝いて、そこでやっと生気を感じた。


 時間は午前八時を過ぎた。普段ならとっくに起きて活動しているが、今朝は深く眠り込んでいるらしい。珍しいことだ。孫が目覚めなくなってから、彼は孫とは反対に眠りが浅くなって夜中に何度も目を覚まし、日中の昼寝で粗末な質の睡眠を補っていた。


「おじいさん、よく病院に来ていたよ。眠るお前の顔を長いこと見つめては、ひと言も口をきかずに帰っていった」


 雀はきゅっと唇を噛みしめ、ベッドに横たわる祖父の枕元に立った。


「それはじいちゃん、すごく苦痛だったろうな。あそこは母さんの恋人の病院だから」


 玄鳥至つばめきたるはうなずいた。遷延性せんえんせい意識障害は、通常何か月も同じ病院に留まることはできない。個室を占領し続けることだって当然できない。雀の体が一所に留まることを許されたのは、母親が看護師で、事実婚の相手が病院の次期病院長だったからである。


「つばきさん。おれの話、長くなるけど聞いてもらえますか」

「もちろん」


 雀は祖父を見下ろしたまま、努めて感情を排し淡々と語り始めた。




「じいちゃんは、死んだ父さんの父さんです。おれは父さんと母さんと三人で近くのマンションに住んでいて、よくじいちゃん家に遊びに行ってました。じいちゃんは勉強家で、地理とか歴史とか植物とか天候とか、びっくりするくらいいろんなことを知っていて、じいちゃんほど物知りな人は他にいないだろうって、おれ、自慢に思ってました。……おれね、じいちゃん子だったんですよ。じいちゃんのことが家族でいちばん好きだった。ほんとうに大好きだった。


 小学一年生の時、おれが仲良しの友だちを他の奴に取られて一人で帰ってきたら、じいちゃん、『じゃあ今日は二人で遊ぶか』って、子ども一人じゃ行けない距離の公園におれを連れて行ってくれて。キャッチボールして、おやつにチョコのお菓子を食べて、またキャッチボールして。じいちゃんは『イッヒッヒ』って笑ってた。おれも『イッヒッヒ』って笑い返した。おれ、それで元気になって。『明日になったらあいつらと向き合うぞ! 意地悪されて悲しかったって言ってやるぞ!』って、すごく勇気が湧いたんだ。じいちゃんはいつだっておれの味方で、ヒーローだった。おれは学校であったこと全部じいちゃんに話して聞かせて、じいちゃんは一緒になって怒ったり笑ったりしてくれた。おれの大切な……大切な思い出です。


 けれど五年前、父さんを心筋梗塞で亡くしてから、じいちゃんはおかしくなりました。たいてい不機嫌で、おれの顔を見ると必ずため息を吐くんです。口を開けばいやなことばっかり言うし。『早くあの世からの迎えが来ないかな』とか、『おれの家系は不幸になる者ばかり。お前にもその血は継がれているぞ』とか。あまりにもひどいから母さんが調べたけど、たぶんうつ病だろうって。じいちゃん、『精神科なんて軟弱者が行く所だ』って言って病院に行かないから、正しい診断はわかりませんけど。


 はじめの頃は母さんもじいちゃんを心配して、おれを連れてじいちゃん家で夕食をとるようにしていました。だから母さんには悲しむひまなんてなかった。仕事に行って、終わったらじいちゃん家に来て、じいちゃんの夕食と明日の朝食を作って、マンションに帰ったらおれの世話や家のことをして、テレビも観ずにベッドに入る。……昔は父さんと母さんと二人で夜ドラマを観ていたのにな。


 母さんが限界を迎えたのは父さんが死んで一年経った頃でした。『姻族関係終了届を出そうと思う』、そう言われました。母さんとじいちゃんの縁が切れるってことです。おれはガキだったから、それを出されたらほんとうに家族が終わる気がして、猛反対しました。その時、おれは母さんを罵った。『じいちゃんを捨てるのか』『おれを捨てるのか』って。今思えば意味がわかんない暴言ですよ。でも当時のおれにはそれが捨てられることと同じに思えたんだ。


 悩んだ末、母さんは届を出した。おれはじいちゃんが心配で、母さんのいるマンションを出てじいちゃんと暮らすようになりました。近かったし、学校とかは何も問題ありませんでした。


 最初はね、よかったんですよ。じいちゃんすごく喜んで。鬱が嘘みたいに良くなって。……でも違った。じいちゃんはおれを父さんの代わりみたいに思っていたんだ。ときどきおれのことを父さんの名前で呼んで、おれがじいちゃんの期待に応えられなかったら父さんと比べてがっかりするんです。学校から帰ればそんなじいちゃんと二人きり。おれは中学に上がっても部活には入りませんでした。だって一人の時間が長いと、じいちゃんおれの顔を見るなりすげえ小言いうから、それが面倒くさくって。授業が終わればとにかく急いで帰る。誰かの家に誘われても必ず断る。ずっとそんな生活です。


 母さんに頼るのは最低限にしていました。飯はじいちゃんがやれたし、おれも簡単なものなら作れたし。それにおれは、じいちゃんを見捨てた母さんを恨んでいたから……。でも恨むのもおかしいって、ほんとうは気づいてた。母さんが精一杯やっているってわかってた。でもおれは……おれは怖くて……。


 なんででしょうね。おれはいつからか、父さんを悪霊みたいに思っていたんです。父さんの霊がおれのことを見ている気がして。おれが自分の代わりに父親を助けるかどうか、きっと見ているだろうって……。


 学校の先生は良い人でしたよ。わざわざ時間割いて、おれのことで母さんと面談してくれたみたいです。でもおれ本人が介入されることをいやがったから、先生はそれ以上踏み込んで来られませんでした。


 おれは自分の挙動が大人の注意を引いてしまうことに気がつくと、やたらと人の顔色を気にするようになりました。その反動か、ちょっとでも気を抜くと仲の良い友だちにきついことを言ってしまって、すぐに自己嫌悪に陥って。それがいやで何が正解かを常に考えながら他人と会話するようになったら、今度はひどく疲れてしまって……。とてもじゃないけど、誰かに優しくなんてできなかった。自分にすらできないんだから、今思えば当たり前ですよね。誰かに助けを求めたくても今さらだと思ったし、何をどう言っていいかもわからないし……。母さんは恋人ができて楽しそうで、相手の人も真面目な良い人で、邪魔しちゃいけないなって思ったし。


 同じ家に住んでいるのに、じいちゃんと顔を合わせることすら避けるようになった頃、近所のおばちゃんたちに『あの子は思春期だからおじいちゃんを無視して会話もしない』なんて言われているのを聞いた時は、怒りよりも笑いが出てきましたね。ほんと、ただ笑えたなあ……。


 でね、ある日おれはプッツン、キレちゃって。雨の中自転車を走らせました。日曜日の朝でした。中三になるし、みんなと同じ塾に通いたいってじいちゃんに言ったら、罵倒されたんです。『どうせ口だけで勉強なんてしないくせに、そうやってまた家を空ける口実を』なんたらかんたら~ってね。それで……ほら、普段我慢できていても、どうしてもだめな時ってありません? その日がそれで。


 暦の上では春になったばかりでも、真冬のように寒い日でした。道もちょっと凍ってた。だけどおれはむしゃくしゃしてたからスピードを出して……カーブを曲がろうとしたところで、横の山から大きなイノシシが飛び出して来たんです。動物園で見たヒグマみたいでした。おれは咄嗟に急ブレーキをかけて、でもすべって、イノシシの巨体が一気に目の前に迫ってきて――。



 おれの人としての記憶は、ここでおしまいです」


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