77、冬の宮の主
「――今現在、秋季は半分がこちらにつきました。あとどれくらいやれるかはわかりませんが、なんとしてでも全員を説得したいところです。全員でなくては意味がありませんから……」
冬の部屋の出窓は大きい。その窓の外は直視できないほどに白い。新年の朝の清い光と輝く雪の白さ。一歩外に出ればその白に包み込まれて、自分というものが吸収されてしまいそうだ。
――消えるというのは、そういうことなのかもしれない。
隣の雀はうつむいている。テーブルにぽたぽたと水玉模様を作る。
「教えてほしかった」
と、雀が涙と一緒にぽつり、ぽつり、こぼした。
「教えてほしかったです。たとえ人の記憶がなかったとしても、俺自身のことだから……」
「悪かった」
皆にさんざん言われたように、話すべきだった。今では玄鳥至もそう思う。
――春さまとの対立、親離れ……いろいろ理由をつけたが、俺はそれらがうわべだけの理由だと知っている。ほんとうは、俺は――俺は怖かったのだ。こいつが自分からここを去ると言い出すことが。帰すべきだ。だが本心では帰したくないのだ――。
時々、抑え込んだはずの恐怖が頭をもたげる。「俺たちを見捨てないでくれ」と、この少年にすがりたくなる。消えるのはおそろしいことだ。忘れられるのは悲しいことだ。
――俺は怖い。しかしだからこそ、立ち向かわなければならないんだ。恐怖に打ち勝て。それが俺たち暦の新しい一歩になる!
「お前の策は野蛮だな、つばき。暦たちはどうなってもよいのだな」
冬の落ち着いた声が玄鳥至の熱を一瞬で冷やした。
四季の最後の一人。この者の助力を得られなければ玄鳥至の一計は成功しない。
――いや、まだ大丈夫だ。もし冬さまがだめだとしても、あの方が――。
「私が断れば
お見通しか。玄鳥至は目を瞑った。
――まあ、当然、ばれるよな。
「言っておくが、此度のことに土用は関わっていない。彼を味方につけたところで何もできぬぞ。土用はたしかに我らに対し発言力を持つが、それでころっと気持ちを変えるほど四季は
冬の物言いは相手に
「つまり、あなたさま次第というわけですね」
「そうなるな」
「……お返事をお聞きしても?」
「わざわざ聞かずともわかるだろう」
玄鳥至は肩を落とした。――ところが冬はこう続けた。
「いいだろう。私もその船に乗ろう」
沈黙が流れた。
ん? と玄鳥至は相手を訝かしんで見た。
「乗る……とは、その。しかし……?」
「思うに、四季の船より沈まなそうだ」
玄鳥至は瞠目した。
「よろしいのですか?」
「良いも何も。雀がそれを望むなら」
二人で雀を見る。雀は唇を引き結んでこっくりした。
冬は新しい珈琲を入れてきて、自分のカップに角砂糖を四つ落とした。そこで思い出したように二人にも角砂糖を勧めた。玄鳥至は丁重にお断りしたが、雀は二個入れた。冬が無言でこちらを凝視するので、玄鳥至は自分のカップを手前に引き寄せた。
「冬さま。あなたは四季だ。なぜ我々に手を貸すのです。冬さまは人びいきだと昔からよく聞きますが、それが理由なのですか」
冬は感情の読めぬ調子で問い返した。
「私が数ある生命の中でも、こと人を気に入っているのはなぜだと思う」
「見当もつきません。冬季の者ですら知らないことでしょう」
冬は珈琲片手に立ち上がり、玄鳥至が直視できないほどに眩い雪景色を悠々と眺めた。
「冬を喜ぶ種は少ない。冬は多くの生命にとって眠りや終わりを意味する季節であり、春に焦がれながら耐え忍ぶ時である。ところが人はそこに楽しみを見いだした。寒さに震え、乏しい食料で飢えをしのぎながら、荒れた唇で冬を美しいと言った。澄み渡る夜空や朝の清涼な空気、霜柱や池に張る氷、生命を閉じ込める雪景色を愛おしい、と。
世が移り変わり裕福になると、人々の冬を想う心もまた豊かになった。イルミネーション、ファッション、冬季限定お菓子は目にも楽しい。異国の神の生誕祭まで取り入れて、子どもたちが冬を心待ちにする姿のなんと愛らしいことか。――冬が! この冬が! 今か今かと心待ちにされているのだ! 春でも夏でも秋でもなく、冬が! 人は良い。人は物事を光に転ずる力を持っている。寒ければそれを理由に手を繋ぎ、寄り添い合って愛を語る。私は感動した! それが理由だ」
「……はあ、そうですか……」
玄鳥至の予想の遥か斜め上空、高度一万メートルくらいの理由であった。
「どうして我々暦が人の姿をしているのか。――つばき、お前は考えたことがあるか」
冬は恍惚とした表情からスッともとの能面に戻った。
「いえ……。仕事しやすいからでしょうか」
「暦とは、人が生み出したものだからだ」
冬は噛みしめるように言う。
「四季も暦も、人が名と役割を与えて生まれた。もとは大きな一本の時の流れに過ぎぬ。人々はそこに自分たちが豊かに暮らしていくための目印を見出した。つまり暦とは、はじめから人のために在る。人の意識が、営みが、我ら暦に命を与え動かしている。人に忘れられた時、我らも消える。自然という大河の一部に還る。――人を愛し、愛されたいと願うこの心も人が生み出したのだとしたら、私はそれを人々に知ってもらいたい。雀にはぜひそれを頼みたいのだ。ここでの記憶をたとえ失ったとしても、心には深く、色濃く刻まれているはずだ」
「冬さま……」
玄鳥至は自然と頭を垂れた。
謎多き冬の宮の主。今日こうして深く話ができたことを光栄に思う。
するとここで何気なく冬の視線が玄鳥至のカップに注がれた。
「私はツバメが好きではない」
「え、なんですか藪から棒に」
「ツバメは冬から逃げるからな……」
玄鳥至は黙って角砂糖を三個取ると自分のカップに放り込み、混ぜずにカップの縁に口づけた――だめだ、ばれている。意を決して喉に通した。もうこのまま一気飲みしたほうが楽になれそうだ。視界の端で雀が肩を震わせている。冬に気づかれぬようテーブル下で雀の椅子の足を蹴った。震えが止まった。
冬はソファに戻り、再び話し始めた。
「私はもともと、人を暦に据えることに反対だった。だが他の三名の言い分もわかる。ゆえに私は闇に潜み、可能な限りいつでもどこでも雀の様子を見守り、困ったことがあれば手助けしようと考えていた」
思わず鼻から珈琲が出た。
「ちょっと……ちょっと待って……、え、それはつまり、こいつを四六時中見張っていたってことですか」
隣で雀がむせた。玄鳥至はテーブルに置かれていたナプキンを渡してやった。
「人聞きの悪いことを申すな。夏の宮と秋の宮には入っていない。その主の許可なく入れないからな。見張っていたのではなく、見守りながら今後どうするかを熟考していたのだ」
「まずやり方のおかしさに気づいたほうがいいですよ」
「雀」
冬は玄鳥至を無視し、ナプキンに顔を埋める雀に優しく呼びかけた。
「記憶を封じる氷が溶けて、それでどうすることにしたのかを、今度はお前がつばきに聞かせてやるといい」
雀はまだらになった布をテーブルに下ろすと、「はい」と力強く首肯した。
冬が立ち上がり、キビキビとした動きで棚から
「我は冬。繋げ、《
皿からあふれ出した闇に飲まれて雀と二人落とされた先は、夏以降、玄鳥至が数えきれないほど足繁く通った家だった。
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