72、雀の涙
廊下の灯りは消えていた。闇の中で雀が健気に深呼吸する音だけがかすかに聞こえる。
雀の肩を抱いたまま、
――どこへ向かおうか。宴会場に戻ればゆっくり話をすることはできないし、他の四季が待ち構えている可能性もある。俺の自室に連れて行くにも、読まれて道中で見つからないとも限らないし――。
「さて」
「ヒッ」
突如耳たぶに触れた冷気と低音。玄鳥至は危うく飛び上がりそうになった。
背後、それも近すぎる距離から現れた冬は、月明かりを帯びて青白く浮かび上がる雪原のように、自ら発する微量の冷気で輪郭を縁取られていた。
「私の部屋へ参ろうか」
「えっ」
「なんだ、つばき」
「いえ……」
冬の自室など未知中の未知だ。誰も入ったことがないのではないか。
周囲の闇がどろどろ溶けていく。チョコレートが流れるようにすべての闇が床へ落ちると、そこに現れたのはステンドグラスがはめ込まれた一枚の扉だった。
中は和室を改装した明治時代の洋館のようなデザインで、白い木枠の出窓から光を取り込み、出窓の前にはティーテーブルとワインレッドの一人がけソファ、綿がパンパンに詰まっていそうなクッションが乗った木の椅子が一脚置かれていた。冬が腕を振るとそこに白木の椅子が追加され、雀は慣れた足取りでクッション付きのほうに、それを見た玄鳥至は当惑を覚えながらも残った白い椅子に腰かけた。
冬が湯気の立つカップを三つトレーにのせて運んできた。珈琲がふたつ、ココアがひとつ。良い香りだ。部屋は暖炉でぬくぬくとして、時の流れはまどろむように遅々としている。
冬は雪のように白い角砂糖をトングでつまみ、何往復もしてぼとぼとと自分のカップの中に落とした。「雪が溶けていくようだろう」そう言ってくるくるかき混ぜ、ひとくちすする。
「つばき、お前は
急に来た。眩いばかりに白い元日の朝をゆったり三人で楽しむ気はないらしい。
冬は涼しい顔でまた珈琲を口に含んだ。雀はといえば、先ほどまでの大人びた表情が嘘のように不安そうに、しかし情愛と信頼を込めたまなざしで玄鳥至の口から真相が語られるのを待っている。
――正直、この状況にまったく頭が追いついていないんだが……。この機会を無駄にすれば真正の阿呆だろうな。
玄鳥至は腹を決めて口を開いた。
「雀と地上へ降りてから、俺は何度か一人であの病室へ行きました。見舞いに来る雀の家族の後をつけ、雀の現在の状況を――家庭環境を調べました」
雀が顔を赤くした。
――ああ、やはり記憶が戻っているんだな……。
玄鳥至は続けた。
「まだ十五のこいつが抱える問題。苦悩。そこに来て不慮の事故――いや事件による
玄鳥至は冬に向いた。
「俺が春さまに教育係の解任を求めたことは、おそらく冬さまもご存知でしょう。その時春さまはこうおっしゃいました。『つばきならわたくしの意図を汲んでくれると思っていたのに』。……結局任を離れることは認められず、俺は雀と距離を置くことで春さまに抗議の意を示したのですが……。春さまの言葉が、ずっと……何をするにも頭にちらついて。今の俺の行動は春さまのご意思に沿っているのだろうか、それとも反することをしているのだろうか。俺はどう動けば春さまから――四季の皆さまから雀を解放してやれるのか。
雀には申し訳ないことをしたと思っています。当然、こいつの不安には気づいていました。俺は理由も告げずに距離を置いたんだ。不安に思わないわけがない。こいつがどれだけ傷つくか、痛いくらいにわかっていたのに……俺は自分の考えを優先させ、
玄鳥至は体ごと雀に向いて頭を下げた。
「すまなかった」
雀ははっと息を呑むと椅子を蹴倒さんばかりに腰を浮かせて、
「あの、おれ、おれも、つばきさんに――」
「まだだ、雀」
冬がカップに視線を落としたまま言うと、雀はちょっと迷う様子を見せたが口を閉ざし、自席にきちんと収まった。
「春はそれについて叱りはしなかった。そうだな?」
「はい」
玄鳥至は作り物のような冬の睫毛をじっと見つめた。
「冬さまはその理由をご存知かと思われますが――」
「まだだ」
冬は今度はぴしゃりと遮った。
「お前はまだすべてを話していない。知りたければ続けることだ」
雀の黒目が潤み輝いている。眉を寄せることがわかっているので口にはしないが、玄鳥至にはその涙が新年にふさわしいものに思え、不思議な感慨に胸が詰まった。
流れる水は不浄を流す。
――雀の涙、か。
量で言えばほんの少しでも、それを生み出すには空漠とした大海の如く感情の動きがあったことだろう。この少量を軽んじてはならない。そこから動き出すものは必ずある。
「続けます。少し長くなりますが――」
思えば生を得てから最も
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