71、二人の証言



 雪がしんしんと降り積もるような静寂が何もない廊下を寒々しく見せる。新年の宴の時にのみ使用が許される十二支の宮は春の宮の屋敷以上に広大で、玄鳥至つばめきたるですら迷う可能性のある迷宮である。そんな所を提灯ひとつで先導する雀の歩調はよどみない。三ヶ月ぶりに会ったというのに会話もなく、終始無言だ。


 ――仕掛けてみるか。


「宴会場からかなり離れたが、いったいどこへ行くつもりなんだ」

亥神いのかみさまの所です」


 予想外の答えに玄鳥至の心の臓がどきりと跳ねた。


「なんだって?」

「亥神さまとお話ししたいんです。つばきさんにも同席してほしい」

「二十四節気ならまだしも、一介の七十二候である俺が、十二支神に直接取り次げるわけがないだろう」

「そこは大丈夫です。取り次いでくださる方がいます」

「……冬さまか」


 はい、と雀が答えてすぐに、前方から冷気と共に声がかかった。


「来たか」


 奥の闇が歪み、白い布がぼうっと浮かび上がる。

 白は尼頭巾あまずきんである。次いで紫の小袖に打掛け姿が現れる。戦国時代の尼のような装いで頭巾から覗くかんばせも中性的だが、声は低く男のものだ。


 四季を統べる最後の一人、冬。


「亥神さまはお一人で酒の酔いを冷ましておられる。十二年前の失態を再び起こさぬために、昨夜から気を張っておられてな。雀、お前のことはまだお伝えしていないが、私がいるので問題ない。臆さず、知りたいことはすべてお聞きせよ」


 冬が音もなく先を行く。雀は玄鳥至にちらと視線を投げてからその後に続いた。玄鳥至は黙ってそれに従った。冬は四季の中で最も謎めいた存在だ。


 ぴたりと閉ざされた障子戸の前で冬は止まった。中から了承を得て速やかに横に引くと、飲み込まれるような群青色の壁に目を奪われた。広さは二十畳ほどで、上座は空だ。しかしその姿は壁の色に劣らず目を引いた。


 亥神は窓のそばに陣取っていた。その堂々たる体躯に金糸の刺繍が施された豪華絢爛な衣装を纏い、いつも以上に迫力がある。よく窓枠が壊れないなと思うほど窓に体を寄りかからせて、白雪舞う坪庭を憂鬱そうに眺めていた。


「はあ、冬や、わしは宴会場には戻りたくないのだ……。わかっておろう?」


 冬が連れ戻しにきたと思って戸口に顔を向けた亥神は、予想外の来客につぶらな瞳をぱちくりさせた。


「なんと、玄鳥至ではないか。そっちは……」

雀始巣すずめはじめてすくうの候補者です」


 冬が答えると、亥神は大仰にうなずいた。


「承知しておる。どうした? 十二支を直に見たくなったか」


 冬が脇に退いたので、雀は前へと進み出て畳にぬかずいた。


「ご無礼をお許しください。亥神さまに、どうしても直接お尋ねしたいことがございまして……」

「面を上げよ。なんだ、申してみよ」


 雀は顔を上げぬまま、静かな声音で――何かを押し殺したような声音で、


「亥神さまはなぜ、暦をお助けくださらないのですか」


 なんと肝の冷える質問だろう。玄鳥至は即座に冬を窺い見たが、冬は凍った泉のように顔色を変えない。


「それか」


 亥神は興醒めした様子で、鼻からブフーッと不満を吐き出した。


「どうしようもないからだ。起きてしまった、それすなわち上界の神々のご意思である。神と名がつけばなんでもできると思い違いする者もあるが、わしは一年を象徴し邪気を祓うだけの存在なのだ」


 雀は冷たい床に向かって言う。


「では、わたしはなんでしょう? わたしもその方々のご意思で呼ばれたのですか」

「そうであろうな」


 亥神は実に素っ気なかった。

 雀は体を起こし姿勢を正して、巌のような相手にやわらかな表情を向け――、



「巨大なイノシシにはねられたんです」



 びくり、大袈裟なほど大きく亥神の肩が跳ねた。玄鳥至もぎょっとして雀を見た。



 雀は淡々と語った。



「朝、自転車でカーブを曲がろうとしたら、山から飛び出してきたイノシシに道を塞がれて。……ああ、はねられたっていうのは違うのかな。おれがはねたけど、弾かれたのもおれだった」



 雀の大きな瞳がギラギラ光った。



「あれは亥神さまですね?」



 亥神はきゅう、とまるまった。雀の双眸の力がさらに強まった。



「あなたはおれを殺そうとした」

「すまなんだ」


 亥神は取り繕おうともせず、震える両手で顔を覆った。


「自分のしでかしたことだ、暦の異変はわしとて気に病んでおったのだ」

「誰でもよかったんですか」

「わしがお主を選んだ」


 亥神はくぐもった声で答えた。


「雀始巣が消えた時……はじめはな、じきに人が新たな暦を作ると思うておったのだ。ところが待てど暮らせどその気配がない。目に見えてスズメの数が減り、弱い個体が増え、そこでようやく気がついた。

 人は暦がひとつ消えたことに気づいておらなんだ。ならばこちらで穴埋めをせねばならん。代わりの者をつくるなら人が良いとわしらは考えた。人が異変に気づかぬのなら、気づかせねばならん。それでざっと下界を調べ、お主に目をつけたのだ。

 わしの目に狂いはなかった。お主は賢く真面目で学び心があり、皆に愛されるような愛嬌もある。スズメを司る暦として申し分ない。これで安泰だと、わしらは安堵したのだよ。お主とてここでの生活に満足しておろう」


「わしら……」


 雀がつぶやく。


「四季の皆さま……」


 亥神がたじろいだ。冬は微動だにしない。

 雀は自分を落ち着かせるように細く息を吐き、再び床に視線を落とした。


「……亥神さま。もうひとつ、よろしいでしょうか」

「うむ……申せ」

「わたしがまだ下界で生きているのはなぜですか」


 そんなことも知っているのかと、亥神は訝しむ目を冬へと向けた。冬は常と変わらぬ能面のような表情のままだ。


「わからぬ。ほんとうだ。死なんかったから、無理やり魂を引き剥がした。だがそう長いこと体から魂が離れてはおれぬ。体は着実に死に近づいておる。お主はあとひと月もすれば人としての生を終え、暦となって二度と人に戻ることはない」


 時が止まったかのような静けさの中、外の白雪は絶えず降り続ける。涙が一粒、陶器のような雀の頬を転がり落ちた。玄鳥至が動く前に、冬が冷気と共にあいだに入った。


「時間だ。亥神さまは十二支の宴にお戻りになる。話は済んだ。下がりなさい」


 冬の視線を正しく受け取り、玄鳥至は即座に雀の肩を抱いて退出した。戸が閉まる直前、冬の口もとがわずかに持ち上がっているのが見えた。


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