65、立冬(その3)――帰り花



「あ、桜のお香だ」

「あれ、桜さん? こんな所までどうしたんですか?」


 もうすぐ立冬りっとうも終わろうかというある日の午後、春季の桜始開さくらはじめてひらくが雀を訪ねてきた。


「これから桜の花を咲かせるんだけど、見たいかなと思って」

「桜を咲かせる?」


 雀は絵筆を置いて首をかしげた。「今は十一月ですよ?」


「もしかして、帰り花?」


 ちはるがちょこんと雀の頭の上に顎を乗せる。すかさず右から山茶花さざんか、左から盞香せんかが腕に巻きつき、


「最近、小春日和であったかかったでしょ」

「それで季節外れにうっかり咲いちゃった子のことを言うんだよ」


 女三人にぎゅうぎゅう押しつぶされて雀は耳まで真っ赤になった。


「ちょっと! もう! 皆さん離れてくださいよ!」

「わあ、ハーレム」


 桜は生ぬるい笑顔を向けると、「誰か天地視書てんちししょを開いてよ」と、壁に飾られた扇子のひとつを手に取った。


「これ描いたの雀ちゃん? 上手に描けているじゃない、ヘビ」

「……龍です……」


「帰り花って、咲かせても一、二輪でしょ? わざわざ見せる必要あるの?」


 しょげる雀の頭をよしよししながらちはるが問うと、桜は閉じた扇子でぺちりと自身の額を打った。


「別名〈狂い咲き〉って言うくらいだもの、私の手もとも狂うかもしれないでしょう?」


 かしまし娘たちは顔を見合わせ、それから一斉に上司を見た。立冬はあらぬ方に顔を背けた。


 蔵の扇子すべてが天地視書に変わると、桜はそのうちのひとつを選んで扇面に指を差し込み、くるりと一回かき混ぜた。すべての扇子に映された裸の桜の木々が、わっと可憐な花で覆い尽くされる。通常ほとんど匂わぬ桜の花だが、今この瞬間は部屋の香を掻き消すくらい強く香った。


「さ、さ、桜さん? 満開ですよ?」

「満開ねえ。お天気もいいし、お花見日和ね」


 桜は余裕綽々よゆうしゃくしゃくで雀の手を引き、桜花に夢中な女たちのあいだをこっそり抜け出した。


「上の方から叱られますよ」

「もちろん、そうなるだろうね。でもあなたと桜を見たかったんだもの」

「春にも見ましたよ……?」


 桜始開の期間、春の宮では連日桜祭りが催され、雀は桜の仕事ぶりを間近で見たのだ。


「二人だけで見たくなったの」


 桜はゆったりと手を引いたまま、冬の宮の武家屋敷から少し離れた川堤までやって来た。土手の上は桜花爛漫、ピンクのリボンを転がしたような桜並木が何キロにも渡って伸びている。


 桜はそばの木の幹に触れ、そっと接吻した。


「あなたたちにはちょっと無理をさせてしまったね。ごめんなさい。とても美しいよ」


 枝が喜び震えてまたひとつ花を咲かせた。


 と、そこにスズメがやってきた。見ているそばから花首をついばみ、顔色ひとつ変えずにぽとっと落とす。落ちた花は風に転がり、川面に浮いた。水面は三分咲きである。冬の宮に流れる川はキンと冷えて透明度が高い。そこに淡紅色たんこうしょくが乗ることで作り物のように完全なる美を匂わせた。


「狂い咲きもいいとこですよ。下界の人たちはさぞかしびっくりしているでしょうね」

「温暖化の影響で――なんて言われていそうだよね。ふふ」


 桜は笑ったが、雀は生真面目に言い返した。


「そのほうがいいですよ。みんなもっと自然破壊を気にするようになるだろうから」

「自然破壊か。……ねえ、それってなんだろうね?」

「はい? そりゃ桜さんも言っていたように、温暖化だったり、絶滅危惧種が増えたり、そういうことでしょう」

「なるほどね。……ちょっとお座りよ」


 と、桜は木の根元に腰かけて隣を示した。


 座した二人の頭上に花びらが降る。満開を迎えたばかりでもう散っていく。木はたしかに無理をしているのだろう。

 桃色の天井を見上げる桜の横顔は美しかった。


「自然破壊とは、単に環境破壊のことを言うのではないと、私は思う。自然とは自分も含めてそう呼ぶんだよ。水があって、火があって、草木があって、風があって……そこに己も存在する。

 あなたが言うように、環境について真剣に考え、自分なりに答えを導き出して行動に移せる者は素晴らしい。信念を持って働く者はなお素晴らしい。でもね、大半の者はそこまでいけないよ。自分に何ができるだろう、専門家じゃないからわからない、わからないから動けない、日々の生活にいっぱいいっぱいで、そんな余裕なんてない――そうして興味がなくなっていく。気にならなくなってくる。

 ……それが悪いかって? いいえ、全然。それでいいと私は思う。まずは自分自身を整えることが大切なんだよ。己に無関心になれば己を破壊する。その次は周囲を破壊する。こうして自然破壊は行われる」


「自分を整えて、それでほんとうに意識が変わるものですか?」


 桜は雀の前髪についた花びらをつまんで微笑わらった。


「頭の隅にあるとね、そのうち動けるようになるものだよ。だからまずは心に置くことが肝要なのさ。誰しもが優等生になれるわけじゃない。……焦らないことだよ。自分を大事にできれば、他のことにも目が向いて、いずれ動けるようになる」


 雀はそれを自分なりに噛み砕いて相手に伝えた。


「つまり……、お腹が空いている時はそのことしか考えられなくて、満たされれば他のこともできるようになる、みたいな?」

「そうね、そんな感じだね!」


 桜を司る暦の破顔一笑。これに勝る春があろうか。


「あーっ、発見!」

「こらーっ、二人とも!」


 遠くからにぎやかな声が聞こえてきた。立冬の面々が武家屋敷通りに繋がる裏道で手を振っている。


「さあて、春さまに叱られに行きますか」


 そう言って立ち上がった桜の袖を雀が引いた。


「今の話をするために、わざわざ……?」

「ねえ、雀ちゃん」


 桜の声には何かを堪える響きがあった。



「この景色を忘れないでね。ずっと心に留めておいてね」



 ごうと身を切るように冷たい風が大量の花びらを空へと巻き上げた。

 二人はそれを見送り、土手を下った。


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