62、秋の夜の終わりに



「私と蒙霧ふかきで二重に君たちを隠している。他に話を聞かれる心配はしなくていい」


 そう言っておぼろと蒙霧は霧の中に消えていった。席を外してくれたのだろうが、これで完全に「疲れているので後にしませんか」と言える空気ではなくなった。


 つばきは目を伏せて少々ためらう様子を見せたが、口を開けば突拍子もないことを言い出した。


「お前を人に返そうと思う」

「……はい?」

「お前は暦にはならず、下界に帰り、人として生を全うするんだ」


 雀はパチパチまばたきした。


 ――……まいったなあ……。


 つばきに言われた言葉の意味がわからないということはこれまで幾度もあったことだが、どうもこれは今までとは趣が異なるようだ。


 反応に乏しい雀に何を思ったか、つばきはたたみかけるように言い連ねた。


「梅子の筆を見つけたあの病室で眠るお前を見て、俺もいろいろ考えたんだ。正直、はじめは見なかったことにしてしまおうと思った。だが見て見ぬふりは……それだけはどうしても……憚られた。それでまず春さまにお話を伺いに行ったが、例の如くのらりくらり躱されて、挙句教育に集中せよと叱責を受け……。俺はこんな気持ちではやれないからいっそ教育係の任を外してくれとお願いした。しかしそれは通らなかった。俺はお前と距離を置くことで、春さまに意思を示した。春さまは特に何も言ってこなかった。あの方の真意を測りかねた俺は、こうなれば一人で動くしかないと思った。何度も地上に降りてお前の素性を調べ、お前という人間を知り、下界に帰す方法を探り――だが途中で清明せいめいさまに諭され、四季の皆さまに悟られぬよう内密に、少しずつ他の暦たちを説得して同志を増やし、それで俺は――俺たちは――」


「ちょ、ちょっと待って、待ってください」


 雀は痛くなりそうな頭を押さえて遮った。聞き手を顧みない話し方は、あまりにも普段のつばきらしくない。


 ――あれ。


 見ればつばきも困り果てたような顔をしている。――緊張しているのだ、柄にもなく。それはなぜ?


「えーっと、いろいろあるぞ。……そうだな、とりあえず大事な部分を……。つばきさんが何を思っておれを下界に帰してくれようとしているのかはわからないけど、おれはこのまま目覚めなくていいと思ってます。おれは暦になって、みんなを助ける」


 つばきの表情が悲しげに変わった。


「忘れているからだ。思い出せばそんなことは言えなくなる」



 ズキンとどこかが痛んで雀は怯んだ。頭か、心か?

 雀に構わずつばきは続ける。



「お前が記憶を取り戻せたらと思うが、その方法が見つからん。俺が教えてやることもできるが、それがお前にどんな影響を――」

「いや、いいんです。おれ、思い出さなくていいんです」



 ズキン。また痛んだ。つばきの眉間にもしわが寄る。



「なぜだ。結論を急くな」

「おれはここにいたいんです。みんなの役に立ちたいんです!」



 ズキン、ズキン。こちらを見るつばきまで痛みを堪えているかのような表情だ。



「……向こうに戻ってもお前を必要とする者はいる。それを聞いてからでも遅くは――」

「いいんです。ていうか正直、知りたくないんです! おれはきっと自殺かなんかしようとしたんでしょう。それが失敗して寝たきりになったんだ。だったらおれは、必要とされるこっちで頑張りたい!」



 ズキン、ズキン。頭だ、いや心だ。どっちもだ。どっちも痛い。



「雀――」

「つばきさんは、おれに残ってほしくないんですか。おれがいたら邪魔ですか」


 失望、それがつばきの顔にありありと浮かんだ。


 ――面倒だと思ったな。


 つばきはまるで聞き分けのない子どもを相手にしているかのようにため息を吐いた。いかにも思慮深い大人らしく、噛んで含めるように言う。


「俺の気持ちなんてどうだっていいだろう。俺はお前のためを思って言っているんだ。今のままでは必ず後悔するぞ。お前の性格だ、過去のことを知れば残りたいなんて言うはずがない。……戻る方法はまだ見つかっていないが、そこは絶対に俺がなんとかするから、お前は俺を信じて――」



 ズキン! パッと視界が白く光った。眩しさに思わず目を瞑る。




 ――お前は亥神いのかみさまにはねられておかしくなったんだ。でなければそんなことを言うはずがない。このことは春さまに黙っておいてやる。お前は俺を信じて、前のお前に戻る努力をしろ。




 それが聞こえたのは一瞬だった。白い光は瞬時に掻き消え、雀は先ほどと変わらぬ霧の中にいた。


 愕然とした。見ればつばきも呆然としているようだ。


 光と共に痛みも消えた。そのかわり、雀は己の心が己のものとは思えぬくらい遠くに行ってしまったように感じた。痺れたような頭で思考が紡がれ、温度のない言葉が自然と口からこぼれ出た。



「あんた、そうやって前の雀始巣すずめはじめてすくうのことも拒んだのか」



 つばきの肩がぎくっと震え、こちらに焦点を合わせてきた。さっきまであんなに強引だったくせに、今はすがるような瞳に怒りが湧いた。


「変だと思ったんだ。他の犠牲者は今まで消えていないのに、なんで雀始巣だけがそんなに早く――って。そうか、そういうことだったのか。あんたがなかったことにしたから、雀始巣は誰からも助けを得られずに、他の犠牲者よりずっと早くに消えたのか」



 つばきの目が最大の恐怖を前にしたかのように見開かれていった。



 雀はそこで不意にいつもの自分を取り戻した。ガツンと頭を殴られたかのような衝撃だった。内なる自分が、つばきに暴言を吐いた自分を強く非難したのだ。


 つばきの顔色が死人のように青白い。雀もそれと同じくらい真っ青になって、次の瞬間にはその場から猛然と逃げ出していた。後からつばきの呼び止める声がしたが、今止まれるわけがない。



 ――またやった! やってしまった! いつもいつも、おれは誰かにひどい顔をさせてしまう!



 雀は霧の中を滅茶苦茶に走って、走って、走った。走れば走るほど闇に突き進むようだった。何かにぶつかることもなく、誰かが追いかけてくることもなかった。つばきも追ってはこなかった。





 うまく息ができなくなって足がもつれ、崩れるように倒れ込んだところで、やっと周囲を確認した。


 暗い。暗いが、においや肌に触れる空気感から、そこが春の宮の、広大な日本庭園の一角だとわかった。


 月のない夜である。葉擦はずれが迫り、闇が香った。誰もいない。自分以外、誰も。ひとりぼっちだ――それでいい、自分のような人間はひとりのほうがいい。


 雀は泣いた。声を上げて泣いた。「つばきさんも泣いているだろうか」と思い、また泣いた。自分という存在が呪わしく、いっそ闇に溶けて消えてしまいたかった。皆が自分を救世主だと言う。でもこんな自分が必要とされるのはほんのわずかな時で、早いうちに嫌われ拒絶されるであろうことは、自分がよく知っている。


 ――なんで知ってるんだっけ。思い出せないくせに、どうしてこんなに苦しまなきゃならないんだろう。何なんだよ。おれって何だ。おれはどうしたら、苦しまないおれになれるんだ。


 黒い空を見上げ、声に出して言った。


「思い出さなきゃいけないんだ。これまでのおれを形作るすべてのことを。じゃなきゃ、きっとずっとこのままだ。そんなのいやだ!」


 ぞろり、前の闇が蠢いた。刹那、額に何かがトンと触れた。


 雀の脳裏に玉石混淆ぎょくせきこんこうな映像が奔流のようにあふれ出した。雀は溺れたが、じきにもがくことをやめて力を抜いた。


 荒波に身を委ねることしばし、やがて自分が静謐な夜の衣にくるまれて座り込んでいることに気がついた。涙が後から後から頬を濡らしたが、そのまま好きに流し続けた。



 どれくらい経っただろうか。頬に乾いた風を感じるようになった頃、腹の奥にポッと火が灯った。熱は体中を駆け巡り、湧き上がる高揚感と焦燥感に身を焼かれそうだった。


 雀は立ち上がると、前を見据えた。


 闇が問うた。


「冬は好きか?」


 雀は答えた。


「好きです。……星が綺麗だから」


 闇が少し笑んだ気がした。









〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


   ―作者からのおしらせ―



ここまでお読みいただきありがとうございます!

秋の宮編、これにて終了です〜〜〜!

不穏エンド(爆)皆さまお疲れ様でした!


次回から舞台はいよいよ冬の宮へ。

更新日は11月8日(水)立冬の予定です。

今夜近況ノートを上げようと思いますので、よろしければそちらも合わせてご確認ください。


応援やコメント、レビュー☆、うれしいです。いつもありがとうございます!

最後の冬の宮編もどうぞよろしくお願い致します。



(いつもの如くこのまま次に進みますと登場人物一覧【秋季】が出ます。不要の方はお手数ですが飛ばしてください)


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