61、霞・朧・霧
辺りはもうすっかり暗い。就業の合図である夕焼け小焼けの鐘が鳴り、
「じゃ、僕はこれで」
さっとつばさが踵を返す。雀はその背に声をかけた。
「つばささん、今日はありがとうございました」
「
憎まれ口を叩いてから、つばさはふと真面目な顔をして、
「……ねえ、ここでの生活は楽しい?」
「はい。皆さん良くしてくれますし」
「そう。君は見所があるらしいから、その時が来たらきちんと独り立ちできるように、今はしっかり学びなよ。前の
嫌味かと思ったが、つばさの目に真剣な色を見いだして、雀はつい思ったことを口にしていた。
「つばささんって、やっぱりつばきさんに似ていますよね。兄弟ですね」
虚を突かれたのか、つばさははじめてわずかに動揺を見せた。
「似てる? そんなこと誰にも言われたことないよ」
「つばささんもお人好しです。頼まれたら断れるのに断らないし、親身で丁寧だ」
つばさは顔を歪めて背けたが、こちらに向いた耳がほんのり赤かった。
「まあね。僕って、話しやすい奴で通ってるから」
それからちょっぴりすねたように、
「……あのさ、兄さんときちんと話しなよ。兄さんって、けっこう勝手で強情なんだ」
黒い山が日中より低く見える。秋虫の声が染み入る木の回廊を、雀は一人でゆっくり歩いて帰った。今日あったことについてじっくり考える必要があった。
ところがいくらも行かないうちに、回廊の上部に等間隔に吊るされた提灯と提灯の暗い境目、その下の欄干に腰かける黒い人影を認めた。
「
声をかけると、日中さんざん雀を振り回した黒い男――先ほど不在だった立秋の末候・
「秋の宮巡りは楽しかったか?」
「はい。とても」
「よかったな」
「思ってませんよね」
考えるより先に言葉が出た。恐れはなかった。
「おれのこと嫌いですか? おれはあなたに何かしましたか」
蒙霧は独特の引き笑いを繰り返すだけで何も言わない。
「笑ってないで答えてください。おれは知らないうちに、あなたに失礼を――」
「暦になる覚悟は決まったのか」
「はい」
即答した。
「なります。おれはみんなの役に立ちたい」
蒙霧の笑みが消えた。
「じいちゃんのことはいいんだな」
「え?」
霧が出てきた。
「もういい、しまいだ。俺はもうお前に興味がない」
逃げる気だ――雀は咄嗟に男の黒い羽織を掴んだ。
「おい、離せ」
「あんたはどうして、こんな――」
「お前の言うとおりさ、お前のことが嫌いなんだよ」
「違う」
雀は抵抗した。霧にまかれる前に言いたいことを言いきらなければ。
「あんたはおれに教えてくれたんでしょう。周りに流されてただ受け入れるばかりじゃなく、他の選択肢もあるんだってこと」
「良いふうに解釈しすぎだろう。こちとらそんなに親切じゃねえ」
「おれはあんたのこと嫌いじゃない。だってすごく勉強になったから」
濃霧が噴き出し、底冷えするような冷気をまとって雀を取り囲んだ。
強烈な寒気に襲われ、雀はよろめいた。心の内にまで霧を送り込まれたようだ。何か得体の知れないものが胸につかえて嘔吐きそうになり、空いている手で口を押さえる。言い返したいのに、口を閉じることに必死になる。
涙目になりながらも雀は男を睨みつけた。意地でも掴んだ羽織を離すつもりはない。
「チッ、このクソガキが――」
「蒙霧!」
ばたばたと慌ただしい足音と共にふたつの人影が見え、間髪入れず霧の中から姿を現した。先頭は春季・
――つばきさん、来てくれた……。
蒙霧は今度こそ雀の手を払いのけると、袖から飴を取り出し包装を破って口に投げ入れ、苛立つままにガリガリ噛んだ。
「へっ、たかがガキ一人のお迎えにあんたまで出てくるとはね」
「霧の出る夜道は危険だからな」
霞の声がいつもよりずっと硬い。猫と接している時とはまるで別人である。蒙霧は肩をすくめて欄干に寄りかかった。
「あの、つばきさん、どうしてここに……?」
うれしさに頬が持ち上がるのを自覚しながら雀が問うと、つばきは雀を見ず、
「帰りが遅かったからな」
と、おざなりに言って霞のほうに軽く頭を下げた。
「悪いな、ここまで来てもらって」
「弟を止めるのは兄としての務めだろう。当然のことだ」
「……弟? 蒙霧さんが、霞さんの?」
雀がつぶやくと、それを拾ったつばきが怪訝な顔をした。
「霞? 今は霞ではなく、
「えっと……誰ですって?」
「知らないのか? 朧だよ。霞のもう一人の人格の」
戸惑いながらうなずいて、霞――朧を見やると、朧のほうも当惑していた。
「馬鹿な。大風呂や食事処で会っているぞ」
「自己紹介をしたことはあったのか? いや、そもそも会話をしたか?」
朧は顎にこぶしを当てて難しい顔をした。霞と同じ顔なのに受ける印象がかなり違う。霞は垂れ目だが、今は若干目尻が上がっているように見えるのは人格の違いか。
「言われてみれば……ないな」
きちんと締めたネクタイに触れ――これもいつもの肉球柄ではなく大人びた猫のシルエット柄だ――朧は丁寧に説明してくれた。
霞と朧はいわゆる二重人格だが、双子のようなものだと言う。日の出から日没までが霞の時間で、その逆が朧の時間というふうに、表に出る時間がきっちり分けられている。一方が出ればもう一方は眠る。春の朝の水蒸気を霞、夜に出るものを朧と呼ぶからこうなったのだと、彼は語った。
「〈霧〉と呼ぶのは秋なんだ。霞、朧、霧……同じものでも季節と時間によって呼び名が変わる。私たちは同じであって、それぞれ違う存在なのだ」
重ねてすまない、と朧は苦笑した。
「兄弟そろって君を混乱させてしまったな」
蒙霧は我関せずで次の飴を取り出している。雀は目の前の朧と、ふてぶてしい蒙霧を交互に見た。
――蒙霧さんと会った時、誰かに似ていると思ったのはこれだったのか。性格は全然似てないけれど……。
「おい」
蒙霧が二個目の飴を口に放り込んだ。
「ただ迎えに来たんじゃねえ、俺がいるから来たんだろ。さっさと済ませねえと、秋のじじいに勘づかれるぜ」
朧とつばきが目を見交わした。朧の周囲から、そして蒙霧の背後から霧が広がる。
つばきが雀の真正面に立った。目が合うのは久しぶりだなと、雀は他人事のように思った。それと同時に、今の自分はかなり疲弊していて頭がうまく働いておらず、つばきの話を聞くには危険な状態だと、内なる自分が警鐘を鳴らすのを頭蓋骨の奥で聞いた。
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