60、立秋――受け入れないこと



「いつまで経っても来ないと思ったら。んもう、手取り足取り教えてあげたかったのに。今度つばきに会ったら、思いっきり抱きしめてあげちゃうんだから」

「兄さん折れちゃうから、おてやわらかにお願いしますね、立秋りっしゅうさま」


 秋季最初の二十四節気であり、なぜか最後に回ることになってしまった立秋の仕事場は、滝壺の真横に口を開いた洞窟であった。


 岩壁の廊下には灯籠が左右等間隔に置かれ、祭りの夜のように明るい。滝の裏同様に轟音は入り口で遮断されたが、湿った水の香りが鼻をすうすう通り抜ける。


 洞窟はそれほど深くなく、すぐに円形のリビングに通された。岩壁には六つの扉があり、それぞれの個室やキッチンやトイレに繋がっている。天井は高く、無数の灯籠がシャンデリアのように吊り下げられている。その真下には円形のローテーブルとバームクーヘンのような形のソファが置かれ、雀たちはそこでお茶をふるまわれた。


 立秋はボディビルダーのような肉体を持ち、後ろ頭は刈り上げ、タンクトップにスパッツ、腰には申し訳程度に法被はっぴを巻きつけている。年は三十代後半といったところか。かぎ鼻が特徴的だが、目もとは笑いじわが刻まれて温かみがある。隣に座る少女、涼風至すずかぜいたるがいつもより小さく見えた。


「あたしの仕事ぶり、雀くんに見てほしかったなあ。ねえ、立秋さま?」

「何言ってんのよ。あんた今年はいつも以上に涼しくするのをいやがって、秋の宮中を逃げ回ったじゃないの。アタシぁ一度でいいから、あんたを追い回さないで静かに任期を終えてみたいわよ」

「だってせっかく兄さんが楽しそうにお仕事していたんだもの。長く見ていたいでしょ」


 涼風すずかぜは夏以降仲良くなった者のうちの一人である。温風あつかぜの熱の件で雀に恩を感じ、会えばいつも良くしてくれた。


「雀くんのお陰だよ。ほんとにありがとね」


 涼風は笑顔が特にかわいい。雀も照れながら笑い返した。心がほかほかした。


「はあ……。頼むわよ、涼風。素直に言うことを聞いてくれるのはあんただけなんだから」


 立秋は低音を鳴らし、困った笑みを雀に向けた。


「ごめんね、雀ちゃん。せっかく来てもらったんだけど、全員そろってないの。末候のお馬鹿さんはちっともここに居着かないのよ。正直、あんまり近づいてほしくないような男なんだけど……」

「お気になさらないでください。また機会はありますから」


 立秋は大きな手で形良い額を支えた。


「あの子もねえ、なんだってあんなにひねくれているんだか。言わんとしていることはわかるんだけど……。『受け入れない』、それが彼の主義なのよ。だからきっと、いてもあなたにいやな思いをさせることになったでしょうね」

「受け入れない……?」

「多様性を受け入れることが善しとされる中で、それをいやがる者もいるでしょう。なんでも受け入れればいいってもんじゃない、受け入れないこともまた自然であり権利なのだ――って。たしかにそうなんだけどねえ……」

「だったら淘汰されるまでですよ」


 つばさは素気なく言って茶を飲んだ。「個人でそれなら別にいい。彼の悪さは、主義を振りかざして他者を攻撃するところです」


 雀は霧をまとう黒い男を思い浮かべた。


 ――受け入れないという選択肢……。そうか、だからあの人は、おれをいい子ちゃんだと言ったのか。


「あらやだ、もういい時間だわ。天地視書てんちししょを見せましょうかね。涼風、カナカナを引きずり出してきて――あ、いいわ、アタシがやる」


 立秋はうぐいす色の扉の前に立つと、破壊しかねない力で扉を叩き、野太い声で怒鳴り散らした。


「出てこい、引きこもり! いい加減にしないと、地中のセミの幼虫全部ほじくり出すよ!」


 扉に隙間ができた。扉と同じ髪色の幼い少女がそろそろと壁沿いに姿を見せる。白い浴衣に薄緑の兵児帯へこおび姿は清潔感があったが、髪はボサボサで、裸足である。動きがのろく、脱皮したてのセミの歩みを思い起こさせた。


 カナカナ――寒蝉鳴ひぐらしなくを涼風に任せ、立秋は雀とつばさを伴って洞窟の外に出た。切り取られた空に茜色が染みこんでいる。


 滝と洞窟のあいだに子どもがかがんで通れるくらいの穴があって、そこから続々と火の入っていない灯籠が流れ出てくる。それらは列を作り、滝の激しさに呑まれることなく立秋の前に集合する。ふつうの和紙に見えるが、水に濡れて破れる様子はない。


 立秋が天地視書を唱えると、一斉に灯りが灯った。


 それに伴い、日が落ちた。紅掛空色べにかけそらいろの下、灯籠に映し出された地上の夕日で滝がぼうっと輪郭をぼかし、得も言われぬ幻想的な光景が浮かび上がった。


「これがうちの天地視書。どう? 綺麗でしょ」


 雀は呑まれたように首を縦に振った。


 水の勢いに耐えられなかった灯籠がひとつふたつと流されていく。どこかの地域はお盆に灯籠を流すと聞いたことがあるが、そういえばお盆は立秋の時期だ。


 雀は水をすくって舐めてみて驚いた。ふつうの水だ。上は塩水だったというのに。


 そのまましゃがんで灯籠を眺めていると、左の視界の隅に子どもの白い足が入り込んできた。心臓がいやな音を立てて跳ね上がり、危うく悲鳴を上げるのをすんでのところで飲み込んだ。

 カナカナは雀の隣に一緒にしゃがみ、ごく近い位置から無表情で雀の顔を凝視していた。


「な、何?」


 カナカナは答えない。少女の淡々しい髪に明かりが反射して、透けて消えていきそうだ。

 どこからかヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。少女が灯籠のひとつを指差す。侘しげな鳴き声はそこから響いていた。


寒蝉鳴ひぐらしなく、って言いたいのよ。この子なりの自己紹介」


 立秋が助け船を出してくれた。雀は怖くて今にも泣きそうだったので、将来は立秋のような強い大人になろうと思った。


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