60、立秋――受け入れないこと
「いつまで経っても来ないと思ったら。んもう、手取り足取り教えてあげたかったのに。今度つばきに会ったら、思いっきり抱きしめてあげちゃうんだから」
「兄さん折れちゃうから、おてやわらかにお願いしますね、
秋季最初の二十四節気であり、なぜか最後に回ることになってしまった立秋の仕事場は、滝壺の真横に口を開いた洞窟であった。
岩壁の廊下には灯籠が左右等間隔に置かれ、祭りの夜のように明るい。滝の裏同様に轟音は入り口で遮断されたが、湿った水の香りが鼻をすうすう通り抜ける。
洞窟はそれほど深くなく、すぐに円形のリビングに通された。岩壁には六つの扉があり、それぞれの個室やキッチンやトイレに繋がっている。天井は高く、無数の灯籠がシャンデリアのように吊り下げられている。その真下には円形のローテーブルとバームクーヘンのような形のソファが置かれ、雀たちはそこでお茶をふるまわれた。
立秋はボディビルダーのような肉体を持ち、後ろ頭は刈り上げ、タンクトップにスパッツ、腰には申し訳程度に
「あたしの仕事ぶり、雀くんに見てほしかったなあ。ねえ、立秋さま?」
「何言ってんのよ。あんた今年はいつも以上に涼しくするのをいやがって、秋の宮中を逃げ回ったじゃないの。アタシぁ一度でいいから、あんたを追い回さないで静かに任期を終えてみたいわよ」
「だってせっかく兄さんが楽しそうにお仕事していたんだもの。長く見ていたいでしょ」
「雀くんのお陰だよ。ほんとにありがとね」
涼風は笑顔が特にかわいい。雀も照れながら笑い返した。心がほかほかした。
「はあ……。頼むわよ、涼風。素直に言うことを聞いてくれるのはあんただけなんだから」
立秋は低音を鳴らし、困った笑みを雀に向けた。
「ごめんね、雀ちゃん。せっかく来てもらったんだけど、全員そろってないの。末候のお馬鹿さんはちっともここに居着かないのよ。正直、あんまり近づいてほしくないような男なんだけど……」
「お気になさらないでください。また機会はありますから」
立秋は大きな手で形良い額を支えた。
「あの子もねえ、なんだってあんなにひねくれているんだか。言わんとしていることはわかるんだけど……。『受け入れない』、それが彼の主義なのよ。だからきっと、いてもあなたにいやな思いをさせることになったでしょうね」
「受け入れない……?」
「多様性を受け入れることが善しとされる中で、それをいやがる者もいるでしょう。なんでも受け入れればいいってもんじゃない、受け入れないこともまた自然であり権利なのだ――って。たしかにそうなんだけどねえ……」
「だったら淘汰されるまでですよ」
つばさは素気なく言って茶を飲んだ。「個人でそれなら別にいい。彼の悪さは、主義を振りかざして他者を攻撃するところです」
雀は霧をまとう黒い男を思い浮かべた。
――受け入れないという選択肢……。そうか、だからあの人は、おれをいい子ちゃんだと言ったのか。
「あらやだ、もういい時間だわ。
立秋はうぐいす色の扉の前に立つと、破壊しかねない力で扉を叩き、野太い声で怒鳴り散らした。
「出てこい、引きこもり! いい加減にしないと、地中のセミの幼虫全部ほじくり出すよ!」
扉に隙間ができた。扉と同じ髪色の幼い少女がそろそろと壁沿いに姿を見せる。白い浴衣に薄緑の
カナカナ――
滝と洞窟のあいだに子どもがかがんで通れるくらいの穴があって、そこから続々と火の入っていない灯籠が流れ出てくる。それらは列を作り、滝の激しさに呑まれることなく立秋の前に集合する。ふつうの和紙に見えるが、水に濡れて破れる様子はない。
立秋が天地視書を唱えると、一斉に灯りが灯った。
それに伴い、日が落ちた。
「これがうちの天地視書。どう? 綺麗でしょ」
雀は呑まれたように首を縦に振った。
水の勢いに耐えられなかった灯籠がひとつふたつと流されていく。どこかの地域はお盆に灯籠を流すと聞いたことがあるが、そういえばお盆は立秋の時期だ。
雀は水をすくって舐めてみて驚いた。ふつうの水だ。上は塩水だったというのに。
そのまましゃがんで灯籠を眺めていると、左の視界の隅に子どもの白い足が入り込んできた。心臓がいやな音を立てて跳ね上がり、危うく悲鳴を上げるのをすんでのところで飲み込んだ。
カナカナは雀の隣に一緒にしゃがみ、ごく近い位置から無表情で雀の顔を凝視していた。
「な、何?」
カナカナは答えない。少女の淡々しい髪に明かりが反射して、透けて消えていきそうだ。
どこからかヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。少女が灯籠のひとつを指差す。侘しげな鳴き声はそこから響いていた。
「
立秋が助け船を出してくれた。雀は怖くて今にも泣きそうだったので、将来は立秋のような強い大人になろうと思った。
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