59、白露(後編)――一歩踏み出す勇気



「休憩中に失礼します。雀始巣すずめはじめてすくうの候補者を連れてきましたよ」



 子どもの男女だった。二人とも十二三歳くらいだろうか。少女のほうが口を開いた。


「お帰りなさい、つばさ。そしてあなたが雀くんですね。わたしは二十四節気の白露はくろ。こっちは初候・草露白くさのつゆしろし。以後お見知りおきを」


 白露はりんどう色の髪の美少女で、ごく薄い黄の着物に銀の帯、水晶をあしらった帯締めが清い。目を見て話さないからか、幾分冷たい印象を受けた。というか、どうも機嫌が悪そうだ。彼女はちらと隣を見て、怒ったように膝の上の本に顔を戻した。

 隣の少年は上司に紹介されても会釈すらしない。髪は透き通るような水色の短髪、着物はモダンな幾何学模様。顔貌は突出したところがなく平凡だが、態度と目に険がある。


草露そうろ、挨拶くらいしたらどうだい?」


 つばさの注意にむっと顔をしかめ、草露は雀に向かって顎を尖らせた。


「よろしく」


 そっちがその気ならよろしくしてやろう、と。白露共々とっつきにくそうだ。


 つばさは雀にアイコンタクトを送り、キッチンへ向かった。白露たちの視界から隠れると小声で言った。


「あれ喧嘩中だね。タイミングが悪かったね」


 だいたい原因はわかるけど、とつばさはカウンターに寄りかかる。


「白露さまはご自分の時間がお好きでね、邪魔をされるのが何よりもお嫌いなんだ。ミズルや穀雨こくうさまの比じゃないよ。膝に本があっただろう? 早く一人になって楽しみたいのに、草露ってば……。あいつはちょっと自分本位なところがあるから、黙っていればそばにいていいと思ってる。大間違いだよ。一人好きっていうのは、とことん一人が好きなもんだよ」

「白露さまは草露さんにそう言わないんですか?」

「言った結果があの険悪な感じなんだと思うよ。草露は我を通さないと気が済まない性格でさ。ま、それのお陰で彼の候は季節ピッタリに動いているけど」


 冷蔵庫を開ける。紙パックの珈琲牛乳とオレンジジュースが並んでいる。珈琲牛乳には『そうろ』、オレンジジュースには『せきれい』と書かれた付箋が貼ってある。つばさは迷わず珈琲牛乳を取り出してグラスに注ぎ、雀に手渡した。雀はぎこちなくそれを受け取りながら、先に疑問を口にした。


「つばささん、もしかして草露さんって、白露さまのことを……」

「思いっきり一方的にね」

「……なんか暦の皆さんって、意外と恋愛を楽しんでいますよね」

「恋に仕事に精を出す、ってやつだよね。日々を楽しむやり方は様々だけど、番を見つけたがるのは生き物としての名残なのかもね」


 つばさは速いペースでグラスを空にすると、珈琲牛乳をおかわりした。パックの中身はもうほとんど残っていなさそうだ。


「ちなみに鶺鴒せきれいちいは付き合ってる。男同士だけどね。気になる?」

「いや、別に……」


 つばさは雀のグラスにパックの残りを注ぎ、空になったそれを平然と台の上に置いた。


「君は勉強家らしいから、鶺鴒鳴せきれいはじめてなくについて、豆知識程度に教えておこうかな。近年のセキレイは渡りをしなくなって年中鳴いている留鳥だけどね、昔は北へと渡る鳥だったんだ。だから七十二候に名があるんだよ。で、そんないつも見かけるセキレイだけど、見た目のかわいさに騙されないでね。実は縄張り意識がすごいし、攻撃性も高くて執念深いから」


 家を出て水音の響くほうに向かう途中、その鶺鴒が一人で追いかけてきた。


「君たち、最後は立秋りっしゅうだよね。涼風すずかぜはもう戻っているよ。問題児くんはいまだ行方不明だから気をつけて」

「秋さまは?」

彼岸ひがんの所。秋分しゅうぶんさまが頑張ってくださっているみたいだから、そこは心配しなくていいよ」


 そこで鶺鴒は二人の会話をわからないなりに聞いていた雀にパチッと片目を瞑った。


「みんなが知らないことを知るのって楽しいよね。優越感があって!」


 ときどき皆の口に上る〈情報屋〉とは鶺鴒のことなのだと雀は知った。



 水は瀑布となって谷底に落下していた。つばさに催促されて、おそるおそる滝のギリギリに立って下を見下ろす。滝壺が針の穴くらいに見える。水が後から後からものすごい勢いでふくらはぎを押してくるのに、その場にとどまっていられることが心底不思議だ。足がすくんでいるから、だけでは説明がつかない。

 無情にも、つばさが後方から発破をかけてくる。


「何をしてるの。そのまま一歩を踏み出すだけだよ」

「でも、さすがにこれは……勇気がいりますよ……」

「夏の宮で何を学んだの? 何事も楽しんだ者勝ちだよ。君が今感じているぞくぞくは、ほんとうに恐怖? ……わかっているんだろう? さあ、行こう。たった一歩だ」


 鼓動が速い。まず息を吐き、そっと吸う。意識的にそれを続けていくと、水が足をくすぐる感覚が蘇った。眼前に広がる大パノラマに息を呑んで、また吐き出す。夏の宮にも山があったが、遠くに見えるあれは同じものだろうか。鷹乃たかののオオワシで空を飛んだ日のことを思い出す。はじめは心臓が破裂するくらいの恐怖だったのに、風に乗れば心が躍った。――そうだ、これはあの時と同じ感覚だ。


 自然と足が前へ出た。下ろす先に地面はない。両腕をめいっぱい広げる。自分は雀始巣になる者だ。この腕がもし翼に変わるなら、自力で空を飛べたなら、どんなに気持ちが良いだろう――。



 静かだ。聞こえるのは内側でうるさく鳴り響く鼓動のみ。頬に触れる空気がひんやりしている。知らず固く瞑っていた目をこじ開ければ、そこは滝の裏側で、入った時と同じ場所だった。


 隣からゆるやかな拍手が聞こえてきた。つばさがいやらしくにやついている。


「たいそうな勇気が入用だったね。笑いを堪えるのも一苦労だよ。しばらくは思い出し笑いをしないように気をつけなくっちゃ」


 立秋のもとへ向かうあいだじゅう、雀は真っ赤な顔でむくれていた。


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