54、黒い男(その3)――真の案内人
「
霧の中を歩きながら、男は上機嫌にべらべらしゃべった。
「霜降のねえちゃんが自分の口でしゃべらない理由を知ってるか? これが馬鹿みたいな話なんだが、自分の節気の音をじっくり聴きたいからなんだとよ。意味わかるか? 霜の降りる音、小雨が降る音、葉の色が変わる音――先のふたつはまだわかるが、最後のなんて意味がわかんねえ。紅葉に音なんてねえだろうがよ。だがあのねえちゃんは、それを遮る自らの声を嫌い、抑えに抑えたその結果、でかい声を出せなくなったって話だぜ。やりすぎて声量がなくなっちまったってわけさ。哀れだねえ」
「哀れといえば」
と、男はまだ続ける。
「霜始降。あの娘も哀れなもんだ。霜降の声である自分に酔ってるんだよ。霜降に最も必要とされているのは自分だ、ってな。いつだったか、霜始降がいない時にな、霜降のねえちゃんは
たしかに変わっているが、雀はそれに対して何も思わなかった。むしろ感心した。暦たちは非常に寛容である。
――受け入れるのが得意……。じゃあ、拒絶は?
前を行く背中がぐらぐら揺れて見える。揺れる黒につばきが浮かぶ。先ほどからずっとつばきのことを考えている。
――つばきさんがおれを監視していたっていうのはわかる。春さま直々の頼みだし、たぶんそうだろう。でも、だったらなぜ突き放すようなことをするんだろうか。……病院であれを見て、つばきさんは何を思った? なぜあの時、おれに忘れろと言ったんだ。あの人は何がしたい? 違う、何をしている……? おれがあれを見てしまったことは春さまに伝えているだろうし、指示を受けておれを遠ざけているのか。……それともほんとうに、おれのことを……。
「今、何を考えているんだ」
はっとして顔を上げると、男が後ろ向きで歩きながら、いやらしくにやついていた。
「当ててやろう、さっきの会話だろ? 多情多恨には頭から離れなくなる内容だよな。なあ、お前さんはどっちだと思う。救世主か、生け贄か? 自分に力があると本気で思うか? なあ、答えろよ。何を考えているんだ」
至極楽しそうな男から明確な悪意を感じたが、問われて雀は思考がクリアになったような気がした。
――生贄とかどうでもいい。そんなことよりおれは、つばきさんの真意が知りたい。つばきさんの考えていることがわからないほうがずっと苦しい。おれは器用じゃない。一個一個、解決していかなきゃだめなんだ。
「おい、なんか言え――」
「つばきさんに会いたいなって」
雀は男をまっすぐに見返した。男は灰色の瞳を鈍色に濁らせた。
「……思っていたより強かだな」
二人同時に歩みを止める。男はぺろっと口周りのひげを舐めた。
「お前は何も知らない」
男は濃霧を絡ませて嘲笑う。
「無知につけ込まれ、のせられて、
「お腹が空いているんですか?」
頓狂な雀の問いに、「は?」と男は間の抜けた声を出した。
「お腹が空いているから、無知を笑うんでしょう」
「どういう理屈だ、そりゃ」
雀は毅然として言葉を放った。
「無知は良いことだ。おれは無知で、あんたがそれを教えてくれたから、おれはどんどん知りたいと思ってる。おれの前には知らない場所に繋がるドアがたくさんあって、開けた先を想像できなくて、怖くて……どれが正解か選べなかったけど、今、最初の鍵を見つけられた。――つばきさんと話す。他のことはそれから考える」
男は言葉を見失って呆けたように雀を見ていたが、
「このたわけ者が……」
と、そこではっと周囲に目を走らせた。「おっと、追いつかれたか」
瞬間、二人のあいだを紺色の閃光が走り、暗雲の如く垂れこめる霧に線を入れた。それは上空を一回転し、鋭い滑空でまた筋を作る。――ツバメだ。その美しい飛翔。
「……つばきさん?」
「あれれ、見分けがつかない?」
ツバメはひらりひらりと身を翻し、霧を見るも無残な状態にすると、すとんと人の姿をとった。
「僕のほうが、兄さんより青みがかっているんだけど」
「
「やあやあ、はじめましてだね、雀くん。兄さんがいつもお世話になってます。ところでこんな所で何をしているのかな? 僕、すっごく探したんだけど」
言いながら、つばさは黒い男を睨めつけた。笑顔だが、目がちっとも笑っていない。黒い男のほうも余裕ある態度でそれを受けた。
「俺がこいつを案内しちゃ悪いってのかい?」
「ふうん、君が? へえ。珍しいこともあるものだね。まあ、いいよ。正直なところ、僕も面倒なんだ。でも引き受けてしまったからね、残りは同行させてもらおうかな」
うすうす察してはいたのだが、どうやらこの黒い男は
雀の心とは裏腹に、周囲の霧が晴れていく。そこにはなんとも清々しい景色があった。
山間の視界いっぱいに黄金の田園風景が広がっている。稲穂の一粒々々が弾けそうなほど膨らんで頭を垂れ、豊作の喜びが風と共に輝いている。田の水が抜かれた土が温かに香り、胸がじんと痺れて、何かぐっとこみ上げてくるものがあった。幸福の象徴だ、と雀は思った。
「ご覧よ、雀くん。あそこに蔵があるだろう。そばで働いているのが
山裾にでんと白い蔵が建っている。ふつうの蔵の五倍はある。風雨の跡のまだら模様が年月を感じさせるが、嵐なんてものともしないくらい頑丈そうだ。周辺に機械の類はいっさい見えず、すべて手作業なことを示している。
「あれ?」
と、ここで雀は首をかしげた。
「処暑ですか? 次は
「ああ、やっぱり飛ばされたんだ。そうだと思った」
つばさが棘のある視線を投げても、男は平然とそばの柿の木の幹にもたれかかって、新しい飴の包装を剥き始めた。
「俺はここで待ってる」
「それがいいだろうね。行こう、雀くん」
男がついて来ないと知り、雀はほっとした。
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