53、黒い男(その2)――盗み聞き
気づけば時間の感覚が失せている。足が鉛のようだと思えばたちまち軽くなり、意思とは関係なしに前に出る。まとわりつく霧に体温を奪われ、心の奥まで冷えが染み込む。
男はズボンのポケットをごそごそやって、オレンジ色の棒付き飴を取り出した。慣れた手つきで包みを剥がし、ちゅぱちゅぱ音を立ててしゃぶり出す。
「何の生産性もねえ秋のじいさんの会議、またやったんだろ? よく付き合うわ」
「ちゃんと意味はありましたよ」
むっとして雀が言い返すと、男は歪な笑みを貼りつけた。
「あっそう? よかったね。秋のじいさんは不安でしょうがないからね。気候の変動で秋という季節そのものが短くなっているからさ」
「大丈夫ですよ」
雀は力を込めて言った。
「暦たちがいる限り、春夏秋冬はなくなったりしません」
黒い男は笑みを深めた。
「今はまだ、な。そのうち、それも遠からず、いくつかの七十二候は消えてなくなるだろう。ふたつみっつが同化する、なんてことも大いにあり得るぜ」
「それは
「いいや。――十一年前の事件ならきっとまた起こる。来年はおあつらえ向きの亥年だ。いや、それだと面白くねえな。他の十二支神か、想像もつかねえ多方面からって可能性もある。とにかく、必ずまた何か起こるだろうよ」
雀は手のひらに爪が食い込むのを感じた。
「おれが止めます」
ぶはっと空気が漏れる音がして、突然男が前屈みになった。背中がぶるぶる震え、ヒイヒイ言っている。笑っている――!
「おれなら止められます!」
「調子に乗んなよ、ガキんちょ」
男は笑いを引っ込めて声を低くした。「お前如きにそんな力はない」
「そんなことはありません。現におれが関われば――」
「うまくいってるって? 必要とされてうれしいかい? ちやほやされるのは、いーい心持ちだよなあ」
嫌われている――そう思うと、雀は急に鳩尾が寒くなった。無意識に握りこぶしをそこへ当てる。
なぜ嫌われているのかを聞くべきだろうか。秋分ならば聞くだろう。相手は隠すことなく毒を見せている。応戦してもよいのだろうか。意味のある毒とはどういうものだ?
「うわっ」思考に気を取られ、木の根のでっぱりに蹴つまづいた。男は地に手をつく雀を悠然と見下ろして、
「お前一人でどうにかなるくらいなら、とっくの昔にもとどおりになってんだよ」
ちゅぽん、棒付き飴を引き抜くと、口の形をそのままに、フーッと霧を吐き出した。
「着くぜ。ほうら、おそろいだ」
男の言ったとおり、
そこは杉の木立に囲まれたコテージだった。その前で焚き火をし、暦たちは炎を中心に立ったり座ったりしている。雀と男はその様子を少し離れた所から霧越しに覗いた。
「霧が邪魔ですね……」
「それはしゃーない。これが晴れれば、俺たちは向こうからまる見えだ」
「どうして見えてはいけないんですか? 近寄って話しかけてはだめですか?」
「話しかける必要があるか? 奴らを見ろ、火を見つめているだろ。あれが霜降の
霧に紛れ、暦たちの会話が漂ってきた。スピーカーを通しているような聞こえ方だ。
「――秋分さまはとんだ災難でしたね」
火のそばに立っている寒露が――あんなにパンパンだった腹はもうぺちゃんこだ――答えた。
「いつもふらふらしているように見えるせいだな。あれで秋さまは秋分を気に入っているから、使いやすいというのもあるだろう。……芋を入れてもいいかな?」
「今日はだめだって言ったでしょ」
しもるがにこっと笑う。「――って、姉さまがおっしゃってます」
「でもねえ、雀くんには可哀想なことをしてしまったわね」
お菊が隣の
「面識のあるわたしか雁が案内してあげられればよかったのに、それもだめだって言うんですもの」
「ほんと、それ! あと三時間程度だし、ちょっとくらい抜けたっていいじゃんね! 全部自分の思いどおりにしたいんだから、あのおじいちゃんは」
「結局、誰が案内しているのかしら」
「さしずめ
ギリスがギターの弦をポロポロと弾く。「他は難ありというか、癖が強いですからね」
「でも、たしか今日は
「それなら
ジャカジャン、ギリスは脇にギターを置いた。
「……ずいぶん大人しそうな印象を受けましたが、彼は実際、我々の救い主になり得るのですか」
雀はどきりとした。良いのだろうか、このままでは盗み聞きだ――しかし隣の男は薄ら笑いを浮かべるだけで動こうとしない。
霧越しに本人がいることなど露知らず、寒露はギリスのほうに振り向いた。
「もうなっているよ。
楓はまた一本薪をくべながら言った。
「真偽の程は定かじゃないが、彼は人だとか。輪廻転生から外され、こちらに組み込まれたわけだけど、彼はそれを望んでいたのかな……」
「そりゃ、望んで来たに決まってるでしょ」
雁だ。
「あたしたち全員、そうじゃない」
「
「みんなそうじゃん。暦になってしまえば、前世の記憶は薄れていくものだよ」
「彼は
「あたしは楓みたいに頭が良くないから、もっとわかりやすく言ってくれないと」
「――え? 姉さま、何?」
しもるは霜降に耳を向け、ふんふんと頭を動かすと、皆のほうへ向く。
「彼は生け贄なんじゃないの? だって」
――生け贄?
雀は頭から冷水を浴びせられたように固まった。
「姉さま、それってどういう意味ですか」
霜降は少し考える素振りを見せると、しもるを通さず、皆に聞こえる程度にぼそぼそ言った。
「彼は暦を正常にする特別な力を持っている。ところが彼は人だと言う。……そもそものはじまりである亥神さまの事件は、上界の神々が起こしたものではないか、という見方がある。下界に思うところのある神々が十二支神にいたずらをして、それが暦に影響を及ぼし、地上に神々の意思を知らしめる。けれどそれに気づく人は少なく、新たな方法をとった――人が壊したものは人にしか直せないから」
しもるは首をひねった。
「じゃあ、神さまが彼を呼んで力を与えたの?」
「それがわからない。あの子はどこか奇妙でちぐはぐだから。あまりにふつうすぎるのよ、彼は。――何にせよ、彼がいるお陰で暦が正常になるのなら、ここに閉じ込めておかなければね。気取られて逃げられないように。ただの魂のうちなら、三途の川を渡れるだろうから。きっとつばきはそのための監視役でしょ。ただ、最近はあまりそばにいないらしいけど……。つばきのことだから、もう面倒になったのかもね」
「――行こうか」
呆然としている雀の肩を黒い男が掴んだ。
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