52、黒い男(その1)――何の暦ですか
秋の宮の食堂は古い料亭のにおいがした。
畳の大広間、景色を楽しむために設えられたガラス障子の向こうには、雨の色が染みこんだ縁側と、その先の波紋豊かな枯山水が利用者に静寂を促している。――が、
驚いたことに、骨と皮ばかりの
一方、静寂を守る
食事が済むと、皆ぞろぞろと大広間を出ていった。
「代わりに誰かを寄越すから、このまま待っていてちょうだい。たぶんすぐだから」
まだ昼食のにおいが残る部屋に一人残された雀は、足を崩して外を眺めた。枯山水を眺めていたら眠気が来て、小石の渦が動いているように見え始めた。
うつらうつらして五分か十分か、大広間に誰か入ってきた。全身黒ずくめの怪しい男である。くしゃくしゃの黒髪、黒い羽織をコート代わりにし、中は黒いサマーセーターとパンツ、靴下も黒。そこそこ上背はあるが、猫背でなければもう少し高いだろう。
男と目が合った。億劫そうな二重の垂れ目、口の周りには無精ひげが散っている。誰かに似ている気がしたが、これまでこんなに無関心な目を向けられたことがなかったので、誰の顔も浮かんでこなかった。
男は軽く舌打ちすると、どういうわけか戸口へ引き返そうとした。
「あ、あの!」
雀はあわてて呼び止めた。
「はじめまして、おれが雀です。秋の宮を案内してくださる方ですよね」
「あ?」
男は足を止めたが、その胡乱な目つきもかすれた声も、体からにじみ出るすべてから「話しかけるな」と発していた。
「あれ? 違いましたか……?」
「……」
男はぼりぼりと後ろ頭を掻き、これ見よがしに長い長いため息を吐いた。
「悪いが俺は今、猛烈に小便してえんだ。置いて行かれたくないならもたもたすんな」
「は、はい!」
男は雀を待つことなく大股で広間を横切り、赤紫の暖簾をくぐって廊下奥の扉を開いた。足もとには黒い革靴と雀の白いスニーカーがそろって置かれ、男はすぽんと自分の靴に足を入れるやそこから三歩、厨房へ繋がる扉のノブを回した。
誰もいない厨房は無数の気配に満ち、目を疑うようなことがひっきりなしに起きていた。
換気扇がゴウゴウ吠える中で、ボールに卵が割られ、菜箸がそれをかき混ぜ、鍋がぐらぐら煮えている。大小様々な包丁たちは機械的な動きで大根の皮を剥き、にんじんをイチョウ切りにし、ゴボウをささがきにする。泡で満たされたシンクに皿やコップが自ら飛び込み、洗い流され、乾燥棚に収まっていく。隅の空いたスペースに積まれたトレーの塔では、宙に浮いた一枚々々にアルコールが吹きかけられ、さっとふきんで拭かれてはまた新しい塔を造りあげる。すべてがごちゃごちゃしているようで、秩序立っている。
雀はそれらをじっくり眺めてみたかったが、黒い男はそれらが見えていないかのような大股で通り過ぎていく。
つばきなら――と思いかけて、頭を振った。まだこの男のことを何も知らないのに、比べるのは良くないことだ。
ラーメン屋の裏口のような扉を開けて外に出る。誰かの家の敷地に入り込んで背戸を抜け、それを何度か繰り返し、村の入り口とは異なる質素な黒門に着いたところでようやく男が振り返った。
「で、なんだっけ? 案内?」
「は、はい」
「どこ? 全部?」
おや、と雀は内心首をひねった。秋分から聞いていないのだろうか。彼岸に引きずられていたから、詳しく話すひまがなかったのか。
「秋分だけ見せてもらいました。次はどこの予定だったんだろう。流れ的には寒露かな? それとも最初に戻って立秋……?」
「じゃあ寒露を見ようか」
男は一転して機嫌良く、ビブラートのかかった鼻歌まじりに歩き出した。雀が「お手洗いは……?」と問うと、「引っ込んだ」と返ってきた。
「あの、あの、すみません。お名前は……? あなたはどちらの暦ですか」
「俺? なんだと思う?」
「ええ?」
男は山へと続く坂をずんずん上って行く。山道へ入る手前、小指を絡めるように根を絡め合った二本の楠の大樹の前で、雀は胸が押されるような息苦しさを覚え、足が止まった。二本の楠がまるで門番のように威圧感を放つ。なぜだろう、なんとなくいやな感じがした。
黒い男は雀を一瞥したが、何も言わず山道に入った。雀は仕方なく追いかけた。大樹のあいだを通るときに何かあるかもしれないと身構えたが、何もなくてほっとした。
急に涼しくなって、霧が出てきた。背後を振り返れば大樹も村も消え失せている。男は雀に構わず先を行く。
どんどん霧が深くなる。一メートル先さえも見えなくなってきた。足場は良くない。足もとに集中すれば、男の背中が霧の中で見え隠れする。血の気が引いた。こんな山の中に置いて行かれたら、一人でどうやって戻ればいい?
「待って、待ってください! もう少しだけ、ゆっくりでお願いします」
男は立ち止まって雀を見下ろすと、冷めた調子で、
「
雀は言葉の意味がわからなかったので、曖昧に笑んで首を傾けた。
「ああ、そう? 若いね」
男ははっきりと嘲笑を浮かべ――瞳の色は冷たい灰色だった――表情をなくして前を向いた。
「心配しなくても、俺がお前を見失うことはない。それに――ほら、ひとつ目が見えたぜ」
前方の霧が薄くなった。
驚いたことに、そこは青く光る洞窟の中だった。少し下がった所に泉が見える。触れれば切れそうなほど透明で、底が青い。青の染料を垂らしたら底に溜まった、そんな感じだ。
「ここは寒露の
「綺麗です。誰もいない……」
「ここにいないとなれば、霜降の所か。みんなでお前さんのことを話しているかもしれないぜ」
雀はどきりとした。
「なんでおれのことなんて……」
「救世主だからに決まってんだろ。それがこんなにいい子ちゃんとは、頼もしいねえ」
男の言葉から、煙草の煙を顔に吹きかけるようないやらしさを感じる。
男は背後の濃霧に足を踏み入れた。
「行くぞ」
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