47、曼珠沙華(その3)



「これは、いったい……」



 石段が消えている。瞬間移動したかのように、宝石のような苔も、整然と天を衝く杉の木立もなくなっている。膝から下は赤に隠され、その赤の上を、遠く近く、漆黒の蝶がひらひらと舞う。曙色あけぼのいろの空は先が見えず、曼珠沙華まんじゅしゃげの花畑は空と等しく広大で、雀は天と地の赤に飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。


「曼珠沙華の毒は意味のある毒よ。この花に種はなく、ゆっくり時間をかけて球根を分離、増殖するから、自身を絶たれると子孫繁栄はそこで終わりなの。己を守るための毒。――怒りもそう。怒りと毒は同じなの。でも、毒は他のものを寄せつけなくなるわね。自身を守るために他者を傷つけ、遠ざける……」


 秋分しゅうぶんと目が合った。秋分は穏やかな笑みを湛えていた。


「あなたはわたしに怒っているんじゃないのね。つばきに対しても違うわね。じゃあ、いったい何に対して怒っているの?」


 風が花をくすぐり、花が雀の足をくすぐる。赤い花弁の隙間から冴え冴えとした緑が見えた。深く息を吸って吐くと、それらすべてが心身の隅々にまで染み入った。


「自分自身に――でしょうか。きっとおわかりだと思いますけど」


 秋分は何も言わない。意を決して続きを口にした。


「おれはどうやら、人みたいなんです」

「そのようね」

「お気づきだったんですか」

「とっくに噂になっているわよ。でも、だからなんだと言うの?」

「人から暦になった方はいるんですか」

「おそらくいないわね」


 雀は自分の足もとに視線を落とした。


「……おれは、ほんとうに暦になれるんでしょうか。人って、いちばん自然から遠い気がします」


 秋分は、「うーん」と己の頬を指でとんとん叩いた。


「あなたが気づいていないだけじゃない? そう思わない者はたくさんいるわよ」

「夏以降、必要としてくれる人はできたけど……」

「いいことじゃないの」


 雀はかぶりを振る。


「それではだめな気がするんです。おれはいつだって何の役にも立たなくて、怒らせてばっかりで、さっきみたいに一人悶々と悪いほうに考えて……。せっかくみんなに必要としてもらっているのに、おれは怖いんです。期待されてうれしいのに、いつかがっかりさせてしまうかもって思うと、怖いんです。誰にも嫌われたくないんです。他人から悪意を向けられるのが、すごく怖い。……たぶん、ふつうはここまで悩みませんよね。そう思うと余計、おれってなんなんだろうって……」


 たまらなくなり、頭を掻きむしる。


「ええっと、つまりですね、きっともっとシンプルでいいはずなんだ。風が吹いて花を揺らす。花が揺れておれの足にあたる。おれはそれを見て、風が吹いていたことに気がついた。自分の浅い呼吸に意識がいって、苦しいのはそのせいなんだって気づいて深呼吸した。そしたら――」


 秋分はにこりとした。


「毒が抜けた?」

「はい。毒は毒でも、あまり意味のない毒でした」

「そんなことあるもんですか。毒はちゃんと持っていなさい。無意識に使うのではなく、使いどころを考えればいいだけのことよ」

「おれ、毒なんて持ちたくないんです。いやなんです。おれは今まで、ほんとうに……だめな奴で。思い出せないけど、それだけは心に染みついているからわかるんです。おれは周囲のみんなを傷つけて生きてきた。全身毒だらけだったんだ。それなのにおれはいつだってみんなの役に立ちたいと思ってる。使えない自分が嫌いだ。でもいざ必要とされるとすごく怖い。失敗して、みんなに嫌われるのが怖い。ほんとうに、むかつく。自分にむかつく……」


 ふっと頭上に影が差して、空を見上げた。



 ――曼珠沙華が降ってくる。



 ふわり、ふわり。曼珠沙華の花の部分だけが無数に降る。地の花に触れ、はじめからそこで咲いていたかのように一際みずみずしい姿を見せる。


「秋という季節は実りばかりに目を向けられがちだけど、厳しい冬を迎える直前でもあるわ。春は命が芽吹く喜びを持ち、夏は命を輝かせる。冬は寂しい季節に思えるけれど、寂しいからこそ、春を今か今かと待ち望む楽しみがあるでしょう。秋はね、実りを得れば枯れていく。現実的に物事を見なければいけない季節なの」


 空から降りてきた花を両手で迎え、秋分はそっと接吻した。花は歓び跳ねて、地に咲く仲間のもとに飛び込んだ。


「あなたは秋のような子だわ。冬を前に怯え、神経を研ぎ澄ましてる。ねえ、そんなに少ない収穫で冬を越そうとしているの? ようく周りをご覧なさい。実りをたくさん蓄えなきゃいけないわ」


 秋分はそこにあるすべてを抱くように両腕を広げた。



「我は秋季が二十四節気、秋分也。我が望みしものを現せ。《天地視書てんちししょ》」



 一瞬にして、曼珠沙華の真っ赤な花のすべてが天地視書へと姿を変じた。何を見せるつもりだろうと雀はそばの群生に焦点を絞り、すぐに問うた。


「これはどこですか?」


 花畑だ。何の花かはわからない。小ぶりだったり、大輪だったり、見たことがあるようでないようなものが大地を埋め尽くし、百花繚乱に平野を彩る。先には光を湛えた太い川が横たわっているが、その輝きはとうていこの世のものと思えない。


「お彼岸はね、彼の岸を想う日なのよ。あの川の向こうは天の国。でもあちらの世界は映せない。神々の世界も無理ね。あとは……暦たち個人の部屋も映せない。だってプライバシーの侵害になっちゃうでしょ。ねえ、今はお彼岸だから、願えば向こう岸に立ってくれるかもしれないわよ。誰か会いたい人はいないの? あなたが憶えていなくても、ご先祖さまは見守ってくれているものよ――」



 急に秋分の声が遠退いて、視界がぶれた。



 白い壁、白いベッド。薬品と太陽のにおい。いつも包み込んでくれる大きな手は、今は力なく横たえられている。

 右隣の人を見上げる。ごま塩頭がうなだれて、ぶるぶる震えている。



 ――じいちゃん。




「雀くん? ちょっと、大丈夫? 顔色が真っ青よ」


 ぼんやりと数回まばたきする。秋分が心配してくれている。周囲の曼珠沙華まで不安がるようにざわざわと揺れ、天地視書がふっと閉じられた。閉じる寸前、遠くの川岸に誰かの影が立った気がしたが、気のせいだろうか。


 ――今、おれは何を見ていた?


 秋分は労るように雀の肩をさすり、遠くに目を向けた。


「無理をさせすぎたわね。うちで休憩しましょ。わたしの三候さんこうも紹介してあげる」


 目線のずっと先に、大英博物館のような荘厳な建物が出現していた。


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