43、夏の夜の終わりに



「試したいことがある。ついてきてくれないかい」



 連れて来られたのは温風あつかぜの寝所であった。病人は四日前と変わらず熱の高い息を吐き、まぶたを糊付されたようにピッタリと閉じている。そばには小暑しょうしょれん鷹乃たかのの三人が緊張した面持ちで座していたが、夏を見るや全員がさっと立って場所を譲った。


「温風の体に触れるんだ。どこでもいい」


 夏は興奮を隠しきれない様子で、まばたきもせずに雀をじっと見る。雀は真夏の太陽を直接見たかのように目をすぼめた。


虫啓むしひらと桃を離した時のように、やわく触れるだけでいいんだ」


 これには玄鳥至つばめきたるもぎょっとした。春の宮だけに留めたあの事件をなぜ知っている?


「春さまに伺ったよ。二度に渡って虫啓と桃を離したのは、雀くん、君だそうだね」


 雀はさあっと青ざめた。


「たまたまです! おれは何も……!」

大雨たいうの涙を引っ込めたのも、今日梅子の筆を見つけたのも君だった。じゃあ、温風は? さあ、やって見せてくれないか」

「夏さま、おれは……!」


 雀は血の気の失せた唇を戦慄わななかせた。すると夏はおどけて肩をすくめた。


「もしや、と思っただけだよ。だめでもともと、君のせいなわけがない。けれど成功したら儲けもんだと思わないかい?」


 雀は救いを求める視線を教育係に送りかけて、


「つばきだってそう思うだろう?」


 夏の言葉にぎくりと止まった。


「……そうですね」


 玄鳥至が無表情でそう言うと、雀はふらふらと温風の傍らに膝をついた。祈るように睫毛を伏せ、震える指で布団から出ている温風の手に触れる。――何も変わらない。


「――だめか」


 夏が低い声で唸った。滅多にない、否、はじめて聞いた夏の落胆の声だった。


「そううまくはいかないね。ありがとう、雀くん」

「いえ……」


 雀はほっとしたような、やるせないようなかすれ声で首を垂れた。



 夏が踵を返し、玄鳥至は押し黙ったままその後に続く。小暑の前を通る際に翁と目を合わせようとしたが、翁は一点から目線を動かさなかった。その目線の先を追うと、雀がまだその場に座り込んでいた。


 と、雀は温風の額の濡れ手ぬぐいがずり落ちかけていることに気がついた。直してやろうと、雀は手ぬぐいに手を伸ばした――。



「ぶはぁっ!」



 突然、温風が大きく息を吸い込んだ。布団をかけた胸が膨らみ、湯気が立つ息を一気に吐く。


 夏はパッと玄鳥至の前から消えて、温風の枕元に現れた。


「何をした?」


 鋭い視線に雀はまごついて言葉が出ず、手だけを動かした。


「頭に触れたのか。……なるほど、熱か」


 温風は数回深い呼吸を繰り返すと、今しがたまで苦しんでいたのが嘘のように静かになって、とろりとうるんだ瞳を覗かせた。


「……夏さま?」

「やあ、温風。気分はどうだい」

「急に楽になったんです。もう秋に入ったんですか? それとも冬?」

「何を寝ぼけたことを言っているんだ」


 夏の声は温かく、胸いっぱいの喜びにあふれていた。



「夏だよ。お前のいちばん好きな季節だろう」



 蓮がわっと泣き出して、温風の体に飛びついた。鷹乃は両手で眼鏡を押し上げて顔を覆い、小暑がその背中を優しく叩く。


 蓮に押しのけられた雀は呆然と尻もちをついていたが、真後ろに玄鳥至の足があることに気がついて顔を上げ――あわててぎゅっと目を閉じた。降ってきた雫が雀の頬に弾かれ、散った。




 その後一行は上機嫌な夏に連れられて宴会場へと向かった。


 立夏りっかの湖畔には竹のベンチが設置され、大きなピクニックシートの上に重箱のご馳走が並び、夏季の暦たちが今か今かと主を待っていた。

 夏の隣に健康そのものの温風の姿を認めると暦たちは拍手喝采でそれを迎え、夏が雀を前に押し出してその功績をたたえればさらに大きな拍手を送った。


 宴が始まった。皆よく食べ、よく飲み、しゃべり、歌い、踊り、日が暮れると提灯明かりを灯し、湖の真上に花火を打ち上げた。


 にぎやかだった。夏の宮の者だけでなく、話を聞いた他宮の者もちらほら参加して、皆が夏の夜風と多幸感に包まれた。


 梅子が、大雨が、温風が笑っている。暦たちは雀を褒めちぎり、救世主だと言って雀の頭をくしゃくしゃにした。雀のほうはといえば、そうされればされるほど戸惑うばかりで、絶えず気のないえくぼを貼り付け、いつの間にか一人輪を抜けた教育係を目で探した。


 爆発音に震動する水面に歪んだ花火が次々打ち落とされる。玄鳥至は竹のベンチに一人座り、それを眺めながらロックの焼酎を舐めていた。


 宴会も終盤に差しかかった頃、いつぞやの宴のように、雀が玄鳥至のもとへ戻ってきた。ぽつりぽつり、とりとめのない話をしながら、しばらく二人で花火を眺めた。夜空いっぱいに爆ぜる大輪ではなく、湖面に咲く不出来な物を。


 やがて雀が、か細い声で切り出した。


「さっき、夏さまに言われました」

「なんて?」


 花火と酔っ払いどもが騒がしい。それなのに雀の声はそこだけ切り取られたかのように玄鳥至の耳に届いた。



「『君はぐちゃぐちゃになった暦たちを救うために選ばれた存在なのかもしれないね。みんなが君を頼りにするよ』――って」



 カラン、グラスの氷が身じろぎした。



 ――この子を導いてあげてくださいね。



 はじめて雀を任された日、春の言葉には別の意味があったのだ。


「どこへ導けとおっしゃるのだ……」


 玄鳥至のつぶやきは水上から噴き上がる花火に掻き消された。


 またドン、と大玉が打ち上げられた。

 雀が意を決したようにこちらを向いた。


「……ねえ、つばきさん。さっきの、あの病室で寝ていたのは、お――」

「雀」

「はい」

「今日あの場で見たものは一度忘れろ。誰にも言うな」

「……」


 玄鳥至は湖面から目を外し、雀を見た。空がパッと明るくなって、柳のように枝垂れる花火が互いの顔を照らす。黒い瞳が水面のように、ざわざわ、ゆらゆら揺れていた。


「わかったな」


 雀は何か言いたそうにしたが、唇を引き結んでゆっくりとうなずいた。









〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


   ―作者からのおしらせ―



夏の宮編、終了です〜〜〜!

ここまでお読みくださり、ありがとうございます……!

いかがでしたでしょうか。

よろしければ応援♡、レビュー☆をお願い致します。すごーく嬉しいので……!


秋の宮編のスタートは8月8日(火)です。

本日22時頃に近況ノートを上げます。そこで今後の投稿スケジュールについて記載しますので、ぜひぜひ御一読下さいませ。


連日とんでもない気温ですが、残りの夏を楽しみますとともに、良き秋をお迎えください!



(このまま続きを押しますと登場人物一覧が出ます。本編に行きたい方はお手数ですが飛ばしてください)


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