42、梅子の筆



 塩素が鼻を刺激する。水中の浮遊感に抗い、一歩、二歩と足を繰り出す。ゆるやかに下降していくと、泡とともに水が視界から退き、目下に青々としたイチョウ並木と灰色の大きな建物が見えてきた。


 立夏りっかの湖で学んだらしい。雀は玄鳥至つばめきたるの真似をしてぎこちなく足を動かした。


「お、おち、おち、落ちなーい」

「お前も余裕が出てきたな」

「夏の宮では何事も楽しむことが肝心ですからね!」


 広いバスロータリーを着地点とした。水を通り抜けて来たのにどこも濡れていない不思議に雀は喜んでいる。両足をきちんと地面につけたのを確かめてから離してやると、雀は首ごとキョロキョロさせた。


「……病院……?」

「梅子の話によると、芒種ぼうしゅに入ったばかりの頃にちらっとこの一帯を歩いたそうだ。あいつは直に梅の木の様子を見るのが好きで、しょっちゅう地上を出歩くから、少し通った所なんかは失念していたらしい」

「他の皆さんはもう来てるんですよね」

「その辺に散らばっているだろう。ここは俺たちが担当する」


 周辺には団地やスーパーマーケットやドラッグストア、保育園に公園もある。他の夏の宮の者たちはそれらを手分けして探しているはずだ。


「みんなが『一目でわかる』って言うけど、ほんとうにおれでもわかりますかね」

「わかる。……と、思う。少しでも気になった場所があればそこを凝視しろ。はじめは何もなくても、それが探し物なら姿を現す」


 まずは病院の周囲を丁寧に一周する。イチョウ並木の根元には赤紫の紫陽花あじさいが葉の上に重たげに首をのせている。今日は頭上に覆い被さるような曇り空で、紫陽花の色も深みを増して暗い。黒南風くろはえが前髪を揺らし、昨夜雨が降った名残で街路樹の土もぬかるんでいる。雀は少しうっとうしそうだ。こういったものを楽しむには、雀はまだ若い。


 イチョウの枝葉や生い茂る紫陽花の中をかき分けてみてもそれらしい物は見当たらないので、病院の敷地内に入った。そこでもくまなく探したが、やはり筆らしき物はない。


「病棟の中を探すか」


 それを聞くと雀は渋って顔を曇らせた。


「梅子さんはこんな所まで入ったりしませんよ」

「落ちた場所にそのままあるとは限らないんだ。転がって移動している可能性は高い」


 行くぞ、玄鳥至が声をかけると、雀はいやいやながらついてきた。病院を好む者は少ないだろうが、ここまで渋るのはなぜだろう。人としての最期の記憶はなくとも、感情が残っているのかもしれない。


 入り口の受付票を無視し、受付窓口の前を堂々と素通りする。当然だが、それを見咎める者はない。廊下を歩く人々をすいすい避けて、階段の下で立ち止まった。


「二手に分かれよう。お前は二階、俺は三階に――」


 振り返ると、雀がいなかった。






 雀は狭い個室の壁に背をつけ、立てた両膝のあいだに頭を入れて座り込んでいた。


「何をしている?」


 うなだれていた焦げ茶色の頭がゆっくりと持ち上がる。ひどい顔色だ。


「つばきさん、おれ、気分が悪くなってしまって。すみません……」

「なぜ勝手に離れた」

「わからないんです。でもおれはきっとこれに呼ばれていたんです。――ほら」


 雀が甚平のポケットから取り出したのは、今にも折れそうなほど細くて白い筆だった。


「これであってますか?」

「梅子の筆だ。間違いない」

「こんなに細いんじゃあ、なかなか見つからないわけですね」

「違う。梅子の筆は相手によって形状を変える。――どこでこれを?」


 雀は力なくベッドの下を指差した。ベッドの掛け布団はうっすらとふくらみ、茶色がかった黒髪が覗いているが、気配はあまり感じられず、微動だにしない。


 玄鳥至はそのベッドに近づいた。なだらかな雪原のように白く薄い布団はしわひとつない。なんとなく、その顔を覗き込んだ。




 そこに寝ていたのは玄鳥至のよく知る少年だった。




 玄鳥至は閉め切られた窓の外に目をやった。四階で、曇天が蠢くのがよく見えた。


「帰ろう。よくやったな、雀」

「……はい」


 窓を全開にすると、雨のにおいがまとわりついてきた。


 具合の良くない雀の腕を掴んで立たせ、窓のそばに寄る。雀は怯えるようにちらとベッドの上に視線を走らせたが、ひゅっと息を呑んですぐにそらした。


 玄鳥至が天に向かって右手を伸ばすと、見えない何かが腕に巻き付いて、強く引っ張り上げられた。ぐんぐん昇り、大暑たいしょのプールから飛び出してプールサイドに降り立つと、そこでは示し合わせたように、夏と大暑の面々が満面の笑みで待ち構えていた。


「お帰り。あっぱれだよ、雀くん!」

「夏さま、梅子は?」


 雀の前に出て玄鳥至が問うと、夏は白い歯をこぼして両腕を広げた。


「芒種の花園にみんな集まっているよ。さあ行こう!」




 キリショウに迎えられ、芒種の館の裏側に回り、先日は入ることのなかった花園に足を踏み入れる。バラの香りが降り注ぐアーチトンネルをくぐって広場に出ると、ちらほら欠けてはいるが、夏の宮の暦が勢揃いしていた。


 梅子が一直線に雀に駆け寄り、恭しく筆を受け取る。それは梅子の手のひらの上でみるみる大きくなり、書道で使う大筆になった。

 梅子は花笑み、ツインテールを振り回してくるくる回った。


「夏さま!」


 心得たように夏が芒種の天地視書てんちししょを開いた。無数のバラが何万もの梅の実を映し出す。

 梅子はその一輪々々に筆をすべらせた。地上の梅の実が少しずつ黄色に色づいていく。


 夢中で色を塗る梅子を皆が幸せに眺めていると、夏が高らかに宣言した。


「宴の用意を! 夜になったら立夏の湖で花火を打ち上げよう!」


 わあっと歓声が上がる。皆がわいわい楽しげに出口へと向かう中、夏が雀を掴まえた。


「雀くん、ちょっと」


 優しい声とは裏腹に、雀の腕を引く力は強い。



「試したいことがある。ついてきてくれないかい」


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