41、大暑(後編)――地上へ



 梅子黄うめのみきばむの任期最終日、夏の宮は梅子がぽろりとこぼした記憶の欠片から、ただちに全員が――外に出ることに乗り気でない者でさえも――捜索に駆り出されていた。


「いやあ、今年は遅かったな。でも、ま、ここまで来たならもう終わったも同然だ。気楽にいこうじゃないか」


 大暑たいしょはそう言いながら、ケースから瓶ビールを次々と取り出しては大型冷蔵庫の中に並べていく。仕事終わりの一杯にしては多すぎる。


 大暑の職場は大暑の自室を兼ねている。二階建ての木造家屋で、庭に面した畳の客間には、杉の一枚板座卓いちまいいたざたくと、使い込まれた小豆色の座布団が適当に敷かれ、ここに夜な夜な酒好きが集まっては、愉快的悦な酒盛りが催される。


「雀くん、外を見てみなよ。うちの暦たちが天地視書てんちししょを開くところが見えるよ」


 大暑に言われて縁側に出たが、履物がない。玄関に戻り、外壁と生垣の狭い通路を通って庭に入る。丸太の柵に近づくと、大暑の家が他より少し高い位置にあることに気づく。終わりの見えないひまわり畑が視界いっぱいを占め、その畑の手前、庭からすぐ下の所に、水の張られた五十メートルプールがゼリーのように揺れている。


 プールの上にはつる棚が設置され、等間隔にガラスの風鈴が吊るされている。涼風りょうふうが風鈴を揺らし、高低様々な清音が一斉に来客を知らせた。


 プールサイドにいる三人の女性がこちらを見、まず暑子あつこが手招きした。


「来たのね。降りていらっしゃいな。ちょうどあたくしたちも、あちらに探しに行くところよ」


 大雨たいうがそわそわと両手を揉んだ。


「早く行こうよ。なんとなく場所がわかっただけで、まだ見つかったわけじゃないんだもん。もし見つからなかったら、あたし、あたし……きっと悲しくって泣いちゃう……」

「ねえ、わたくし最近はあなたの泣き声を聞くだけで、パン生地を調理台に叩きつけたい衝動に駆られますの。先日それで台に穴を開けたの、もうお忘れ?」

「これ、桐花きりか。女たる者強くあれとは教えたけれど、乱暴がいいなんて、あたくしは教えていませんよ」


 大暑と暑子は夫婦である。桐花はそれを間近に見てきたために結婚というものに憧れを抱き、暑子はそんな桐花の強い希望で、一昔前の花嫁修業に付き合っていた。


 遠回りするのが億劫だったので、玄鳥至つばめきたるはさっとツバメになると、プールまで飛んだ。


「ちょっと、つばきさん!」


 雀は右往左往して、家の中へと引っ込んだ。大暑にひと声かけるためだろう。雀はよく気が回るので、多少放任でも問題ない。


 玄鳥至はプールサイドで人型を取ると暑子の隣に立った。


「あら、だめじゃない、雀くんを置いてきちゃったの?」

「夏さまから何も言われていないが、雀も連れて行くのか」

「つばきの判断に任せる、そうおっしゃっていたわ」

「雀だけを行かせなかったら、後から嫌味を言われそうだな」


 横から桐花がしなだれかかってきて、そっと――見た目によらず握力は強い――玄鳥至の左手を取った。


「わたくしと行動を共にしませんこと? 一人で雀くんのお守りをするより楽なはずよ」

「いや、いい」

「遠慮しないで。夫婦になる練習よ」

「他の者としてくれ」


 玄鳥至がなんとか左手を取り返したところで、雀と大暑がプールサイドに現れた。


「やあやあ、お待たせ。それじゃあ始めようか。暑子、お願い」


 暑子がプールに向かって天地視書を唱えると、すべての風鈴が呼応するように短冊を揺らした。ガラス面に下界が映る。


 雀が玄鳥至の袖を引いてささやいた。


「小さいですね。てっきりプールに映るのかと……」

「いい線いってるぞ」


 カッ! 風鈴の中から直下に光線が発射され、プールに突き刺さって水蒸気が立ち上った。危険極まりない音と熱は、さながら怪獣映画のようだ。直視すれば目がやられるので、固く瞑って終わるのを待つ。


 やがて光熱と水蒸気が収まると、半分ほどに減った水面には天地視書が開かれ、風鈴はもとのとおり涼やかな音色を奏でた。――雀の顔は引きつっていた。


「繋ぎなさい」


 暑子に命じられ、水面に波紋が起こった。全体がオーロラのような光を放つ。


「それじゃ、つばき」


 大暑が太鼓腹をつぶして窮屈そうに屈伸する。


「雀くんのことは頼んだよ。場所はさっき教えた辺りだ」


 大暑は水泳のジャンプスタートの構えをとると、


「ほっ」


 選手のように美しいフォームで宙に飛び出し、腹からプールに落っこちた。派手な水飛沫が大波となってプールサイドを襲う。どこから出したか女三人は傘を広げてそれを防ぎ、玄鳥至と雀は頭からびしょ濡れになった。波打つ水面に大暑の姿はすでにない。


 続いて大雨、暑子が躊躇なく飛び込み、執拗に秋波しゅうはを送ってきていた桐花もとうとうあきらめて先に行き、プールサイドには玄鳥至と雀だけが残された。


「――というわけで、天地視書に入る」

「先に言ってくださいよ! おれも入って大丈夫なんですか?」

「地上に降りるだけだから」

「どういうことですか? 人のように歩き回れるんですか?」

「幽霊みたいなものだ。建物もすり抜けられるし、水にも風にも乗れる」

「人には見えない?」

「もちろんだ。そうしようと思えばできなくもないが、今回はしない」


 雀はなみなみと揺れる水を前に二の足を踏んだが、玄鳥至に腕を取られてあきらめた。


「行くぞ。いち、にの、さん――」


 どぼん、玄鳥至は無意識にもがく雀の腕を跡がつきそうなほど握りしめ、あぶくに包まれながらプールの底に沈んでいった。


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