40、おそろしいと思うか



 小暑しょうしょはまるい石の上に腰かけていた。手にのせた若い笹の葉をくるくる広げ、少しいじってから先を唇に挟む。不細工な音が出た。

 玄鳥至つばめきたるも葉をもらったが、唇まで持っていかなかった。


「小暑さま。お聞きしたいと思っていたことがあるのですが、よろしいですか」

「何かな?」


 玄鳥至は小暑より低めの石に並んで腰かけた。


「小暑さまは、己が消えることをおそろしいと思いますか」

「いいや、思わないねえ。形あるものはいつか消える。そうやって命は巡っているからね」

「では、仲間が消えることは?」

「怖いねえ。少なくとも今は。いずれ記憶から消えてしまえば何も残らないだろうけど」

「俺は……」


 言いよどんで葉をいじる。伸ばすことをやめると、葉はくるんと内に巻かれた。


「俺は、怖くないのです。きっと薄情なのでしょうが、温風あつかぜ梅子うめこ大雨たいうの様子を見ても、恐怖を感じることはないのです。虫啓むしひらと桃には怒りすら覚えています。しかし土用どようさまのおっしゃったことは……皆遠からず消えるかもしれないということは……衝撃でした。衝撃でしたが、おそろしいかと問われれば……」


 小暑は目をまるくして玄鳥至を見た。


「おやまあ、つばき」


 目尻のしわが深くなる。


「そんなことはないよ。アタシから見れば、お前さんは誰よりもこの事態を憂えているよ」


 玄鳥至は翁の日に焼けた柔和な顔をただ見つめた。


 小暑は言う。


「自分の心と向き合うことまで面倒に思うのはどうかと思うねえ。何がお前さんをそうさせているのかね。……春さまが他でもないお前さんに雀くんを預けた理由、もう少し考えてみたほうがいいかもしれないね」

「何かご存知なのですか」


 翁は目を伏せて首を振る。こめかみから汗がしたたり落ちる。


「知らないよ。でも前々から引っかかっていることはあるんだよ」


 そこで束の間逡巡したが、思い切ったように、


「……お前さん、雀始巣すずめはじめてすくうが消えたあの年、やけに動き回っていたじゃないか。あれについて話すつもりはないかい?」


 小暑が言っているのは、亥神いのかみの事件の直後に春から内密に依頼された件のことだ。一年間、皆の様子を調べて報告せよ――あの年、玄鳥至はそのために四季の宮を奔走した。


 そう、奔走した――それで? それでどうした? 言われたとおり報告をした。亥神にはねられた者、そうでない者区別なく。けれどやはり、はねられた者たちを見張ることが多かったように思う。梅子が袖からぽろりと筆を落とすのを目撃したのも、あの時がはじめてだった。うっかりとはいえ彼女が仕事道具を落とすなんてこれまでになかったことで、すぐに春に伝えたことを記憶している。


 ――では、雀始巣は? 俺はあいつについて何を報告した?


 よれよれになった笹の葉が、はらり、手から落ちた。


「これはあくまでアタシの憶測なんだが……」


 と、小暑が前置きし、何も言わない玄鳥至を窺い見る。


「雀始巣が消えたことには、つばきも関わっていたんじゃないかな。どうもそんな気がしてならないんだよ。つばきは昔、春さまから何か頼みごとをされていたんだろう? それも内密に。……ああ、なんとなく噂にはなっていたからね、知ってるんだよ。お前さんは春さまから、暦の異変を止める手助けを依頼されていたんじゃないかい。でもその甲斐むなしく、雀始巣は消えてしまった。お前さんはそれで心に蓋をしたのかもしれないね」



 戦慄が走った。



「……雀始巣が消えたのは、俺のせいかもしれないということですか。この先誰かが消えるのも、俺がその時失敗したから――」


 小暑は笑った。


「そんなことは言ってない。そう思うってことは、お前さんが心の奥底でそう考えているからじゃないのかな」


 わからない。


 思い出せない。


 ――どうしていつも俺ばかりが頭を悩ませる。春さまは俺に何を求めておられるんだ。遠回しなことをしないで答えが欲しい。だが直接聞いたところで、容易く話してくださる方でもない。ああ、面倒だ、何もかも。この先雀のことでさらなる面倒が起こるなら、俺はもうこの件から手を引きたい。


 しかし玄鳥至は自分でそれを否定するように頭を振った。


 ――俺は、雀のために、雀が望むことに、応えてやらなければならない……と、思う。それは雀が俺たち暦に何かをもたらしてくれるからなのか。……そうだ、いつか救世主が現れる――前任の雀始巣、あいつがそう言った。そう言って、その後に――。



「つばきさん?」



 そばで雀の声がした。肩にやわらかなぬくもりが触れる。白みかけていた視界が瞬時にクリアになって、隣に立つ黒い瞳と視線が交わる。


 ――こいつはほんとうに目が綺麗だな。


大暑たいしょさまのお話、終わりましたよ。……あの、大丈夫ですか。顔色が……」

「そうか、わかった。なら今日はもう春の宮に戻ろう」

「は、はい。そうしましょう」


 小暑に暇を告げようと振り向くと、翁はひらひら手を振った。


「またね、雀くん。つばきも、またおいで。思いついたら来ちゃいなさい。時間は有限なのだから」





 翌日、春の宮でまた騒動が起こった。


 清明せいめいの部屋で朝礼に参加し、今日もまた灼熱の夏の宮へ向かわんとだらだら準備し始めた時、啓蟄けいちつが息せき切って駆け込んできて、虫啓と桃が再び出奔したことを冷や汗まみれに告げ知らせた。


「あの二人はそれぞれ別の離れに閉じ込められていたんだろう。なぜそうなった?」

「ああ、清明、おれもわけがわからないんだ。夜番だった土脉つちのしょうなえと交代することを告げても桃からの返事がなく、訝かしんで扉を開けたら、中はもぬけの殻だったと」

「虫啓のほうは誰が?」

草木くさきだよ。知ってのとおり、草木はいい加減にやっているようで抜かりないだろ。本人も直前まで虫啓と雑談していたと言うんだ。それが知らせを受けて中を確認してみれば、忽然と姿を消していたって言うじゃないか。何がどうなっているのかさっぱりだ。春さまのお耳に入れば事だから、こうして助けを求めに来たんだよ」


 結局、二人が見つかったのは夕刻近くなってからで、場所は啓蟄の天地視書てんちししょの部屋だった。ぞっとすることに、またぴたりと抱き合って離れられなくなっていた。聞けばどうやって一緒になったのかもわからないと言う。気づけば二人一緒になって、空を漂ったり土の中を移動したり、夢見心地で過ごしていた――と。


 偶然、発見現場に居合わせた玄鳥至と雀は、前の晩同様、啓蟄と菜虫と協力して二人を引き剥がしにかかった――が、今度は拍子抜けするほど楽に離せた。後から現れたおおとりはつに連行されて行く二人の背中を見送りながら、菜虫は暗い面持ちで羽衣を握りしめた。


「ねえ、つばき。もしかすると……ううん、わからない。頭にちょっと浮かんでしまっただけなの。でも、怖くて……。あのね、虫啓と桃はひとつになろうとしているのではないかしら。くっついて、完全にひとつの暦になってしまう……」



 ――お前たちはどうかしている。

 ――あはっ、同化しているって? 上手いこというじゃない。ねえ虫啓、聞いた? あたしたち、ひとつになってるって。



 いつかの会話を思い出して、ぶるり、身震いした。冗談じゃない。笑いとしては心底寒い。



 はじめて夏の宮の熱を恋しく思った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る