39、大暑(前編)――大雨の涙
出口が近づくと、笹舟はジェットエンジンがついたかのようにいきなり激しく速度を上げた。
トンネルから飛び出すと同時に体がもとの大きさに戻り、小川のほとりにぽいぽい放り出される。背後で着地に失敗した雀の「ふぎゃっ」が聞こえた。
「ほら、皆さん戻ってきましたよ。さあさ、泣くのはもうおやめなさい」
白地に朝顔の浴衣の中年女性、
「だって、あたしうれしくって、感動しちゃって……止まらないんですぅ」
滝のような涙の手本を見せる
「いい加減にしてくださるかしら! 見なさい、つばきが幻滅しているでしょう!」
「俺を巻き込まないでくれ」
「皆さんお疲れさま!」
大暑がビール腹をゆっさゆっさと揺らしながら近寄ってきて、尻餅をついたまま唖然としている雀に手を差しのべた。
「これはこれは、雀くん。浜辺に戻ったばかりの浦島太郎みたいにボーッとしているね」
「あ、いや……、なんだかこの流れについていけてなくて……」
「さもありなん! 小暑の天地視書は生き物としての感覚が狂うんだ。小さい生物になったかと思いきや、もっと途方もなく大きなものになったかのような」
「いや、それもそうなんですけど、そうじゃなくて……」
「ぎゃああん!」
辺り一面が涙のにおいに蒸れた。
「あだじっ、雀ぐんに会えでっ、うれじい!」
「大雨、大雨。ほれ、憧れの雀くんだよ。せっかくだから握手しなさい」
大暑が雀の右手首を掴んで大雨の前に突き出すと、阿吽の呼吸で暑子が大雨の右手を掴み、その手を握らせる。連携の取れた早業に雀はされるがままだが、大雨のほうはみるみる涙を引っ込めて、しゃくり上げながらもにこにこし出した。雀は
「大暑さま、そちらには明日お伺いする予定でしたが、何かあったのですか」
色目ですり寄ってくる桐花を躱しつつ玄鳥至が問うと、大暑は大雨から雀を解放し、「うん、あったよ」と軽い調子で言って、肉厚な背中と短パンのあいだに挿した花火絵の
「たぶんそろそろ筆を落とした場所の見当がつく頃だからさ。そうなると筆探しに集中しなきゃならなくなるから、大暑の時期の説明どころではないと思ってね」
「それならまた改めて、大暑さまの任期にお伺いしますが……」
「大暑は下界では夏休みのシーズンなんだよ。雀くんには思いっきり夏を楽しんでもらいたい! というわけで、今ここでざっと大暑について説明するよ。そんで梅子の筆騒動が終わったら、雀くんは夏季のあいだ好きな所で自由に遊ぶといい。夏に勉強なんて、頭が茹だる! 夏休みは遊んでなんぼ!」
大暑の後ろで暑子が青筋立った笑みを浮かべている。大暑は今年の任期も地上のビアガーデンに行こうとしているのだろう。
涼しい小川沿いに敷物を敷き、麦茶とスイカが振る舞われ、大暑の、大暑による、大暑のための講演会が始まった。
「大いに暑いと書いて、大暑【たいしょ】! 任期は七月二十三日から八月六日頃だ。夏休みでいちばん楽しい時期だろう、え?
初候は桐始結花【きりはじめてはなをむすぶ】、花を結ぶっていうか、実を結ぶ頃なんだけどね、実と一緒に、来年五月頃に咲く花のつぼみができる頃でもあるんだよ。だから〈花を結ぶ〉なんじゃないかと思うよ。
次候は土潤溽暑【つちうるおうてむしあつし】、〈溽〉という字には〈湿気が多くて蒸し暑い〉という意味があってね、夏の絡みつくような暑さを〈
ほいで末候は大雨時行【たいうときどきふる】。ドバーッと夕立が降るあれのことだよ。どうだ、これぞ夏! って感じの節気だろう」
その他にも、大暑は首のタオルで汗をふきふき快活にしゃべった。
甘酒は冬のイメージがあるが、夏の季語。江戸時代には夏バテ防止として甘酒を幕府が奨励し、甘酒売りが売り歩いていた。
今はゲリラ豪雨なんて呼ばれているが、夏の雨には昔から降り方によって様々な名がついている。例えば「馬の背を分ける」と言われる局地的なにわか雨〈
大暑は話が上手く聞きやすかったが、桐花がだんだんそばに寄ってくるので、玄鳥至は頃合いを見計らい、笹トンネルの向こう側に一人戻った小暑のもとへ移動した。
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