38、小暑(その3)――一寸法師



「さてさて」


 小暑しょうしょは口調を明るくして、雀に笹の葉を差し出した。


「そろそろお仕事に取りかかりましょうかね。ここにたくさんの笹舟があるけど、雀くんはどれにする? それとも自分で折ってみたいかな」


 雀は言葉の意味がわからずきょとんとした。土用どようはくつくつと喉を鳴らし、「先に行っている」と言って笹舟をひとつ小川に落とすと、自身も石の上からひょいと飛び降りて姿を消した。

 雀が動転して川を覗いているあいだに、玄鳥至つばめきたるは自分の舟を物色した。


「俺はお借りします。沈みたくないので」

「はいよ、どうぞ」


 つるりとスマートな笹舟を選び、水の上にのせる。ちらと雀に視線を投げてから指を離し、小川の上にジャンプした。


 ぎゅっと体が圧縮されて、景色が水飴のように溶けて歪む。ボートのように安定感のある笹舟の上に無事着地すると、すぐさま後ろを振り返った。


 いつもは見下ろす雀の顔がずいぶん高い所にあって、地上のどこだかに立つ仏像のようだ。もっともその表情は驚愕に凍りついていて、悟りとはほど遠かったが。


 見えるかどうかはさておき、玄鳥至は固まったままの雀に片手を挙げると前に向き直り、カヌーに乗る要領で足を前へと投げ出し――、


「あ」


 と、ここで忘れ物に気がついた。竿がわりの小枝を忘れた。仕方がないので両手で左右の縁を掴み、前方を睨み据えて、ブラックホールのように口を開ける笹のトンネルに向かっていった。


 舟は揺れた。川は轟々と音を立て、粘度高くどぷんどぷんと波打った。岩と化した石にぶつからないようぐいぐい縁を引き、何度も尻を跳ねさせる。巨大なカジカが玄鳥至を一瞥したが、カジカは慣れた様子で無関心を貫いていた。


 やがて大きな影に飲み込まれると、途端に流れがゆるやかになった。先ほどまでの急流が嘘のように鎮まり、入り口から差し込む光も消え、夜の湖面に出たようだ。


 小さくなった今、笹のトンネルはプラネタリウムのドームのようだった。川を覆う笹の葉すべてに無数の景色が映し出されている。


「うわあ! なんですか、これ!」


 遅れて雀のうわずった声がわんと響いた。


「これが小暑の天地視書てんちししょだよ」


 と、雀の後ろに立つ小暑が説明する。

 小暑は特大の小枝を巧みに使い、玄鳥至の傍らに舟を寄せた。雀が興奮した修学旅行生のように舳先から身を乗り出した。


「なんだか一寸法師になったみたいですね!」

「落ちるぞ。落ちても助けてやらないぞ」

「格好つけて枝を持っていかなかったお前さんにも、同じ言葉を贈ろうかな」


 そう言うと小暑は脇から小枝を一本取って、玄鳥至に投げて寄越した。雀がにやにやくすくす笑う。もらったばかりの枝をさっそく攻撃に使おうとして玄鳥至が構えると、即座に小暑の枝が伸びてきてそれをパシリと打った。莞爾かんじとして笑う翁に気圧され、玄鳥至は大人しく引き下がる。雀も黙って居住まいを正した。二艘はゆっくりゆっくり舟を進め、先にいた土用の後ろに並んでついた。


 土用は頭上の一点を見上げて言った。


「小暑、あの葉を落としても構わないか」

「どうぞ、お好きなように」


 土用がちょいちょいと指で招くと、その先の葉がふるふると震え、身を捩って自ら枝を離れると、右に左に遊びながら舞い落ちてきた。三艘の近くに音もなく着水し、おぼろげに緑の梅の庭園を映し出す。土用が目を凝らすと、その妨げにならぬよう周囲の天地視書が光彩を下げ、照明を落とした映画館のようになった。


 土用が腕を差しのばすと、ためらいがちに笹の葉が寄ってきた。触れる距離になって、土用は直接手のひらを映像にあてる。脈打つように波紋が起こり、土と緑が香ってきた。


「今が土用ならば、土公神さまにもお願いできたのだがな。これはじっくり見ていく必要がありそうだ」


 そこからはゆらゆら漂いながら、各々好きに地上を眺めた。雀はすっかり一寸法師の笹舟を気に入って、高揚感からまったく集中できないようだった。


 そのうちにトンネルの出口の光が見えてくると、水の音しかしない清らかな空間に耳障りな騒音が混じり始めた。誰かの泣き声、怒る声、笑い声がする。


「騒々しい。なんの騒ぎだ」


 土用が眉をひそめた。


「この声は……おそらく大暑たいしょさんご一行じゃないですかねえ」


 小暑が苦笑した。


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