37、小暑(その2)――雑節・土用



 小暑しょうしょは身動きのとりやすい鯉口シャツに股引の江戸前スタイルで背をまるめ、石の上に笹舟を並べていた。


「おや、来たね」


 翁は長いこと屈めていた腰をうーんと伸ばし、指先に挟んだ笹の葉をひらひら振った。


「今ねえ、天地視書てんちししょを開いていたんだよ。ねえ、土用どようさま?」


 五メートルほど下流に、小川に覆い被さるようにして笹のトンネルができている。その入り口に、赤みがかった黒髪を頭のてっぺんで結い上げ、深藍ふかあいの無地の着物に草履を履いた小僧がうずくまっている。小僧は顔を上げると、下膨れの赤い頬をピクリとも動かさず、無愛想に会釈した。


「驚きました。あなたさままで、筆探しを?」


 玄鳥至つばめきたるが歩み寄ると、土用は濡れた手をふりふり立ち上がった。


「夏には世話になっているからな。地上じゃ、四度の土用の中で夏が最も有名だろう。南風はえの手配や、すねる土公神どこうじんさまをなだめる時も夏が駆けつけてくれて、たいへん助かる。現代人は土用のあいだも平気で土に触るし、出歩くからな」


 玄鳥至は雀を振り返って手招きした。


雑節ざっせつの土用さまだ――雀、土用【どよう】とは?」


 雀は土用に丁寧に挨拶してから、キラリと挑戦的な光を瞳に宿した。


「立春、立夏、立秋、立冬の前の、約十八日間のことを言います。正式名称は〈土旺用事どおうようじ〉。土が最もさかんになる頃。もとは陰陽五行説いんようごぎょうせつで、木を春、火を夏、金を秋、水を冬として見立て、それらの中央に配置された土を土用としました。つまり土用とは、最も万物が成就する季節の変わり目、特に季夏きか――夏の終わりを意味します。……〈土用のうしの日〉って、おれ、勉強するまでは夏だけのものだと思ってました」


「季夏は暑中見舞いの頃だねえ。出す人もあまりいなくなったけど」


 小暑は節くれだった指で器用に笹舟をこしらえる。


「いろいろなものが消えていくねえ。土用の期間は土に触れてはいけないという言い伝えも、もうほとんどの人が知らないだろう。――土用さま! せっかくですから、雀くんに教えてあげちゃくれませんかね」


 草履を後ろに蹴って脱ぎ捨て、土用は大きな石の上にまたがって足をぶらぶらさせた。


「土公神さま――土の神のおはからいだ。季節の変わり目だから畑仕事に精を出し過ぎて倒れる者が出ないように、とな。働き者の人々を畑に触らせないため、土用のあいだは土公神さまが土に籠られる。だが十八日間もそれじゃ、人々は仕事にならんだろう。あのお方はそこも配慮されて、ご自身が天に帰られる日もつくられたんだよ。それを間日まびと言う」


 すると土用は軽い調子で、


「さて、このことを今はどれだけの人が知っているのやら。このまま人々に忘れられてしまえば、それはなくなったも同然だとは思わないか」



 玄鳥至は鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。



 ――忘れられれば、なくなったも同然。……それは、亥神いのかみさまの被害に遭った者たちだけの話ではないのか。俺たちにも当てはまるのか?



 ザアザアと激しく風が吹き、頭上の竹が打ち合う音が警告音のように鳴り響く。葉が鋭い吹雪のように落ちてきて顔を掠める。玄鳥至はうつけたように棒立ちになって、何も言葉を発せない。



 ――もしかしたら、俺たちは皆、いずれは消える運命なのか。亥神さまの一件は、今まで見えていなかったそれが表面化したにすぎない……?



 舞う竹落ち葉の中に幻が見える。



 淡い茶髪。いつもは話す時に目を合わせないのに、今はまっすぐこちらに向けられた、はしばみ色の穏やかな瞳。




 ――あのね、つばき。これから暦は大変なことになるかもしれない。でもきっとなんとかなるよ。ぼくはね、いつの日か必ず、みんなの救世主が現れると思うんだ――。




「土用は大丈夫じゃないかなあ」



 はっと我に返り、玄鳥至は雀を見た。雀は目を剥いてこちらを凝視する教育係の顔を見て「しまった」と焦り、敬語に直した。


「土用さまは、うなぎがある限り、大丈夫な気がします」


 土用は何のことかと一瞬ぽかんとしたが、すぐにそれに思い至ると、天を仰いで呵々と笑った。


「うなぎか! そうか、そうか。ならばうなぎに感謝せねばならんな。……ふふふ、ああ愉快。入梅にゅうばいに聞かせてやりたいわ」


 入梅は梅雨の頃の雑節である。重くなりかけた空気を一掃するかのような土用の笑い声に、玄鳥至は硬くなっていた全身から力が抜けて、会話に加わる気力が戻ってきた。いつの間にか風もやんでいる。


「そういえば、昨日芒種ぼうしゅさまのもとをお訪ねしましたが、お見かけしませんでしたね」


 玄鳥至のほうに体を向けるため、土用はよいしょと足をそろえた。


「うむ。あいつ、お気に入りの梅子の変化に傷ついておってな。近寄りたがらんのだ。梅子が今にも自分の目の前で消えるのではないかと、戦々恐々としておる。おいらにまで当たり散らかして、『土用のほうが消えそうなのに』などと小憎らしいことを言う」


「梅子はまだだと思うんだけどねえ」


 小暑は新しく折った笹舟をひととおり検分すると、木漏れ日にかざした。そこから雀に視線を落とす。


「十一年前のあの日、亥神さまにはねられた者は皆、間もなくして目を覚ましたんだがねえ……。雀始巣すずめはじめてすくうはいちばん最後に気がついたんだよ。じゃあ、その直前に起きたのは誰だと思う?」


 雀はわからないと首を振りかけて、目を見開いた。


「……もしかして、温風あつかぜさんですか?」

「当たり」


 小暑はかがんで清流に笹舟をのせた。少しのあいだ指に挟んでそれを眺めていたが、川の流れに押され、笹舟はひゅっと指の隙間から逃げ出した。


「その前は、虫啓むしひらと桃が同時だったねえ。さらにその前は梅子じゃなかったかな。それから大雨たいう、真っ先に目を覚ましたのは収声しゅうせいだったよ」

「目を覚ますのが遅かった人から消えていくかもしれない、ということですか」

「たぶんね」


 笹舟は飛び出した石のあいだを危なげなく進んでいたが、小さな滝下りに失敗して横倒しになると、そのまま笹のトンネルの向こうに姿を消した。


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