35、夏至――雀の受難



 三日目は夏至げしの所へ向かった。


 昨夜の虫啓むしひらと桃の逢引き騒動でかなりの寝不足だ。夏の宮の門をくぐった途端に太陽にのしかかられてうなだれた。


 雀と二人、城に向かう竹林の道をとぼとぼ歩く。ここは日差しが遮られ、呼吸がしやすい。ぬるい風は緑を抜けてさわやかに香り、頭上で鳴り響く竹の諍いも清々として、靄のかかった頭に心地よく染み渡った。


 道の先が三つに分かれている。まっすぐ進めば城へ着き、右が夏至へ、左が小暑しょうしょへと続く。

 右を選び進んでいくと、その先から男とも女ともつかぬ悲鳴が聞こえてきた。


「つ、つばきさん、今……」

「雀、覚悟しろ」

「何を?」


 間もなく目に飛び込んで来た光景に雀は絶句した。


 竹林が途切れ、沼地の周囲に紫の花が咲き乱れる光景は目を見張るほどに美しいが、雀の足を地に縫いつけたのはそこではない。つややかな花の紫と生命力あふれる葉の緑を差し置いて、ピンク、ピンク、ピンク……そこに垣間見える白と黒。フリルとレースでびらびらの着物の海が風に波打っている。乃東枯なつかれくさかるるの作品だ。この暑いのにフリルで縁取られた着物を好む四十半ばの女性で、ヨーロッパのアンティーク品マニア、芒種ぼうしゅのお茶会の常連でもある。


 彼女の前に顔面蒼白の着せ替え人形がいる。夕立を束にしたような長髪に白の着流し、中性的な相貌の幽霊――否、二十四節気・夏至である。


「かるるッ!」


 夏至が叫んだ。


「若い子がいるッ! 君の着物が似合いそうだよッ!」


 かるるの首が百八十度回って雀を捉えた。



 数分後、哀れ雀は物言わぬマネキンとなり、かるるに何十着と着せ替えられながら夏至の講義を受けていた。目の前には見事な天地視書てんちししょが広がっていたが、雀の両目はガラス玉のように何も映していなかった。


「うちの天地視書はアヤメやハナショウブ、カキツバタの群生を使うんだよ。どれもすごく似てる花なんだけど、違いはわかる? わからないよね。『いずれ菖蒲あやめ杜若かきつばた』って言うくらいだもの。

 アヤメは花びらに網目模様があることから〈アヤメ〉って言われてて、乾いた土に生えるんだ。カキツバタは白い線が一本入ってて、池や沼のような水辺に咲く。ハナショウブも湿った土に生えて、花びらに黄色い模様が入ってる。

 アヤメもカキツバタも五月の花だけど、ハナショウブだけは夏至の頃に咲くんだよ。でもうちはせっかくだから咲く時期を統一したんだ。一斉に咲いてて綺麗でしょ。


 ――あれ、雀くん、雀くん? ねえかるる、ちょっと帯きついんじゃない? 雀くん息してなさそう」


 夏至は解放感に浮かれ、異様なテンションで早口に説明を続ける。


「夏至【げし】は有名だよね。昼の時間がいちばん長くなる夏至の日ね。それを持つ初候は乃東枯【なつかれくさかるる】、だいたい六月二十一~二十六日頃で、乃東だいとうとはうつぼ草、別名を夏枯草なつかれくさと言うんだよ。冬に芽を出して初夏に花を咲かせ、夏至の頃に枯れていくからそうついた」


「枯れる前に彩りたくなってしまうのは性分なのよ」


 かるるはチークで桃色の頬をさらに紅潮させて鼻息を荒くした。


「雀くん、あなたいいわ……! すごくいいわ! 今のうちにたくさん彩っておかなくちゃ」


「次候の菖蒲華【あやめはなさく】、六月二十七~七月一日頃だよ。この菖蒲とはハナショウブのこと。そもそもハナショウブって、アヤメやカキツバタとは違う種類なんだって。ね、あやめ、そうだよね」


 菖蒲華あやめはなさくは先ほどからそばにいながら、ひと言も声を発さない。薄紫の短髪に黄色い瞳、真一文字に結ばれた白い唇、一見どころか二見三見しても近寄りがたいが、彼女は皆から「あやめ姐さん」と呼ばれ、慕われている。暦三大姐さんと呼ばれるうちの一人で――残りの二人は春季の牡丹華ぼたんはなさくと秋季の菊花開きくのはなひらくだ――細やかな気配りができ、頼りになることから皆の信頼度は高い。今も無言でかるるや夏至を睨めつけているのは、おそらく雀を救い出す機会を窺っているのだろう。冷静な者がいてくれるのは非常に助かる。


 少し離れた所に一人で篠笛を吹く美少年が立っている。彼を半夏生はんげしょうずと言い、七十二候であると同時に雑節ざっせつの一員でもある。薄化粧をし、濃紫のポニーテールに牛若丸のような着物、被衣かずきを被る姿はおなごのようだ。和楽器ならなんでもござれで、リクエストすれば尺八だろうが琴だろうが、どこからか取り出して奏でてくれる。


「末候の半夏生【はんげしょうず】は七十二候と雑節を受け持つ唯一の者なんだよ。雑節は二十四節気や七十二候とはまた違う日本独自の暦……っていうのはもう知ってるよね。

 ねえ見てよ、彼ったら涼しい顔で笛を吹いてばかり。ここだけの話、あの笛ってその気になれば他の者を操ることができるらしいよ。いつも吹いてるのはそのためなのかな。――あ、聞こえた? 冗談だよぅ、半夏はんげ。気にしないで続けて、どうぞ。

 それでね、名前の由来なんだけど、一説には半夏生はんげしょうって名前の草が葉の一部を残して白くなることから来てるんじゃないかって。〈半化粧〉ってことだね。彼をご覧よ、半分どころか綺麗にお化粧してるみたい。……待ってよ、もしかして白粉おしろいしてないの? 期待に応えて半化粧を体現中? だとしたらお肌綺麗すぎない?」


 半夏が笛から口を離した。「いえ、しています」


「だよね、びっくりした。――あら、かるる、今着せてるこの着物、すてきだね。寒露かんろの洞窟みたいに澄んだ青ってわたしの好み」

「やだあ、うれしい。着ます?」

「ううん、それは大丈夫。――ええっと、どこまで話したっけ?」

「かるる」


 あやめが動いた。


「彼、今すぐ解放しないとあなたの大事な着物に胃の中身をぶちまけそう」

「あらら、大変」


 雀の顔色は今や土気色だった。フリルとレースの山から解き放たれると、雀は一目散に逃げ出した。本気を出せばあんなに走れるのかと玄鳥至が感心してしまうほど速かった。


 夏至の面々が呆気にとられているうちに、玄鳥至は挨拶もそこそこにツバメに変化へんげし、雀を追ってその場を脱した。



 雀は十字路で座り込んでいた。涙声で「帰りたい」と言う。


「これも仕事の一環だと思え」

「そういうの、なんて言うか知ってます? パワハラって言うんです」


 ごもっとも。だが今日はまだ帰れない。午後からは小暑へ行かねばならない。


 雀をなだめすかし、ひとまず夏の城の食堂で昼飯に冷やし中華を食い、多少気分が向上したところで次へ向かった。


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