31、芒種(その2)――思春期のノリ
結論から言って、
「鴻が来てくれるんなら、もっとちゃんとお洒落したのに! どうして先に伝えてくれなかったの?」
「悪かったって、
「わかる? 今日はカールが上手に巻けたの!」
梅子はきゃあと一人はしゃいで振袖とミニ丈のプリーツスカートをひらめかせ、鴻の硬い腕をバシバシ叩いた。鴻は顔を引きつらせてじりじりと逃げを打っている。
「つばきさん」
雀が小声で
「鴻さんは、梅子さんのことは……?」
「好かれて悪い気はしないだろうが、別にどうとも。男とくだらんことをしゃべっているほうが楽だが、ときどき女の肌が恋しくなる、その程度の女好きだ」
「言い方……」
頬を染め、雀はちらと背後を確認した。先ほどから視線が気になる。
「あの、つかぬことをお聞きしますが、あそこにいらっしゃるのは……」
「芒種の次候・腐草為蛍【くされたるくさほたるとなる】。その名のとおりホタルの季節を表す者だ。任期は……いつ頃だかわかるか、雀」
この世には目を合わせてはいけないものがある。玄鳥至は絶対にそっちを見ないようにし、努めて平静に、核心から話をそらした。
「六月十一日から十五日頃ですね」
「正解だ。ではここでホタルについての豆知識をひとつ。ホタルはカイコと同じで、成虫になると――」
「何も食べなくなるんですよね、知ってます。で、あれが噂のほたるさんですか。つばきさんに片想いしてるっていう」
このやろう。雀め、真面目な顔を繕いながら、心でにやついているのがまるわかりだ。後で覚えてろよと思いながら、玄鳥至は観念して思春期の好奇心に応えてやった。
「そうだ。だが直接話しかけに来ることはほとんどない。いつもは梅子の背後からまばたきもせずにこちらを見つめてくるが、今日は梅子を引き剥がせたお陰で距離がある」
「いやどっちにしろ怖いんですけど」
「照れているんだそうだ」
「なるほど、『鳴かぬホタルが身を焦がす』……あ、これ、
「覚えなくていい、そんな陰気なことわざ」
早く芒種が姿を現してはくれないものか――中央にあるオペラ座のような大階段に視線をやると、その踊り場に奇抜な輩がシャシャッと現れた。
「ささ、皆さんこちらへ! 芒種さまがお待ちッスよ!」
茶髪に鮮やかな黄緑のメッシュ、裸の上半身に前開きの緑のベストと黄色のネクタイを身につけ、七分丈の細身パンツはピンク色。誰がどう見たってクレイジーな男が、階段上で謎のポーズを決めている。男は両腕を曲げ、手首を曲げ、指を伸ばし――カマキリらしくピンと伸ばした指先全部を使って二階廊下を指し示した。
「どうぞ! このキリショウがご案内するッスよー!」
「つばきさん……」
雀が声をひそめて言った。「すごい……すごい格好の方ですね」
「芒種の初候・蟷螂生【かまきりしょうず】。あれで無害ないい奴なんだぞ。〈芒種〉とは稲に関係する言葉で、カマキリは害虫駆除に一役買ってくれる。人にとっては益虫だ」
キリショウを先頭に、ぞろぞろと二階のモスグリーンの絨毯を歩く。廊下の壁はクリーム色で、等間隔に飾られた絵画はヨーロッパの有名作品の複製で統一されている。フェルメール、ミレー、モネ、ルノワール……すべて芒種のコレクションだ。
だしぬけに梅子がキリショウの脇腹を突いた。
「ふひええ」
どこから出したか情けない声を漏らし、キリショウはべしゃりと壁にぶつかった。揺らされた真珠の耳飾りをした少女が額縁の中で非難がましい目つきになったが、梅子は気にもとめずにキリショウの脇腹をつつき続ける。
「ねえ、今日の紅茶はアールグレイよね。朝、芒種さまがそうおっしゃっていたものね」
「はい、そうッス」
キリショウは突かれてうれしそうだ。
「でもあたしはローズがいいな。今日飲みたい気分じゃないんだもん」
梅子はそこで三歩どころか十メートル後ろを忍び歩くほたるに振り向いて、「ほたるもローズ?」
ほたるは一瞬身をこわばらせたが、「ダージリンで」と、玄鳥至に目を据えたまま、「つばきはそうだから」――紅茶なんて滅多に飲まないのに、なぜ俺の好みを知っている。
「了解ッスぅ」
キリショウはへらへらふらふら先を行く。それを見た鴻が呆れ返ったように、
「おめえは相変わらず女に甘いな。おい梅子、キリショウは給仕係じゃねえんだぞ」
意中の男に苦言を呈されても梅子はどこ吹く風で、浅緑に毛先だけ
「女の子をもてはやすのが自分の生き甲斐ッスから! 都合のいい男と言われようが、頼られて悪い気はしないッス!」
白く塗られた木製扉をノックし、許可を得て入室する。湿気のないさわやかな薫風、部屋にしみついた茶葉の香りが心地よく中へと誘う。全開の窓のレースカーテンが大きく広がった先にテラス席が見え、遠方に見晴るかす万緑の山々、むらのない紺碧の空、泡立てたばかりのような真白い雲も、ふだん春の宮で見ているものより色が濃い。
「よかったわ、ちょうどセッティングできたところだったの」
着物を十八世紀のヨーロッパドレス風にして着こなす貴婦人が、ペティコートの前掛けを正しながらテラスで手招きする。白いテーブルクロスの上にオレンジ色のバラとティーセットが飾りつけられ、午後いっぱいをここで過ごそうという眠たくなるような意志が読み取れる。梅子とほたるが次々に駆け寄って、芒種の両隣に腰を下ろした。
玄鳥至らも促されるまま席に着くと、芒種はうきうきと手を叩いた。
「さあ、お茶会よ!」
――ああ、まずい。
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