25、立夏(前編)――湖、湖、湖



 見た目によらず安全で快適な移動を提供してくれたオオワシを見送り、二人は背後の風光明媚たる絶景を見渡した。深緑の山々に囲まれ、満々と水を湛える宏大な湖は、息をのむほど澄み渡っている。

 日差しが燦々と降り注ぎ、水辺のそばでも汗が噴き出す。近くの木々からアブラゼミやニイニイゼミの熱烈な求愛が切れ目なく続いている。


「……誰もいませんね」

「連絡は行っているだろうから、すぐ来るさ」

「あ、わかった!」


 雀はしゃがんで足もとに寄る波をビシッと指差した。


「これが天地視書てんちししょになるんでしょ。きっとこの湖面に映るんだ。ね、当たりでしょ」

「当たりだけれど、想像どおりではないかもしれません」


 どこからか清らかな女の声で返事があった。雀は飛び上がってキョロキョロと辺りを見回したが、玄鳥至つばめきたるはじっと数メートル先の湖面を見つめ続けた。


 湖面に波紋ができた。波紋の中心が盛り上がり、ザアザアと音を立てて人の形になっていく。体にまとわりつくすべての水が流れ落ちると、残った水滴が仕上げとばかりに弾け飛んだ。

 湖上に立つのは二十歳を越えたばかりに見える娘だ。白いレースワンピースの肩に広がるとろりと甘そうなチョコレート色の髪。娘は清楚で可憐な微笑みで二人を歓迎した。


「ようこそ、立夏りっかへ。待っていました」

「立夏さま。遅くなりまして申し訳ありません」

温風あつかぜはどうでしたか?」

「ひどいですね」

「そう……。私たちには薬なんてないから、どうにもできないのが歯がゆいですね」


 立夏は小さく息を吐くと、切り替えるように雀に笑顔を向けた。


「夏季最初の節気、立夏【りっか】は、おおよそ五月五日から二十日頃までを担当しています。初候は蛙始鳴【かわずはじめてなく】、次候は蚯蚓出【みみずいずる】、末候は竹笋生【たけのこしょうず】。カエルが鳴き始め、ミミズが活発になり、竹の子が顔を出す――命を育む栄養が地上に行き渡り始めたことを示す節気です」


 立夏は眩しいほど白いスカートをひるがえして湖に向いた。


「それでは行きましょうか。ついてきてください」


 そう言うと、どんどん水の中へ身を沈めていく。


「えっ? えっ?」

「行けばわかる。下駄を脱げ」

「えっ?」


 混乱しながらも裸足になった雀の腕を軽く叩き、玄鳥至は立夏の後を追って水に入った。


 水はぬるく、この暑さには物足りないくらいである。ざぶざぶ進み、胸のあたりまで浸かった頃に背後を確認すると、背の低い雀は首を伸ばしてあっぷあっぷしていた。


「潜るんですよね? おれ、泳ぎはあんまり上手くないんです!」

「大丈夫だから。そのまま頭も水につけてしまえ」

「平泳ぎですか? いちばん抵抗なく行けそうですよね。でもおれ、平泳ぎは前に進まないから……」

「いいから入れって」

「立夏さま、泳ぐスピードを落としてくれますかね? さすがに置いていったりはしませんよね。でもおれがあんまりもたもたして見失ったらどうし……うぶっ」


 少々手荒だが雀の頭を掴んで沈め、玄鳥至もすぐに潜った。雀は固く目を瞑ってがぼがぼと泡を吐き、水面に戻ろうと躍起になって暴れたが、玄鳥至はその無駄に足掻く手足を後ろから羽交い締めにした。


「泳ごうとしなくていい。呼吸だってできるから」


 雀は激しく首を振る。


「足もとを見ろ」


 再び頭を掴んで無理やり下に向けてやると、雀は「あれ?」と言って動きを止めた。水の中だが、玄鳥至も雀も砂の上にきちんと立っている。


「どうして……あれ? 話せてる? 息も……あれえ?」

「先を見てみろ」


 目の前には上で見たような湖面が広がっていた。上と大きく異なるのは、巨大な、優に三メートルはありそうな睡蓮の葉が無数に浮き、所々にそれらを繋ぐ黒い擬宝珠ぎぼしを被った朱塗りの橋が架かっているところである。立夏はいちばん手前の橋の欄干に腰かけていた。


 もう大丈夫だろうと、玄鳥至は雀を放して歩き始めた。上を見上げれば水面がチカチカと瞬いて、さらにその上の青空までをも透かして見せる。マスだろうか、魚の影が顔に落ちる。地上の熱気も蝉の声も置き去りにした水底は、ひんやり静かで心地よかった。


 歩くと行っても、地をそのまま歩くのとはわけが違う。多少浮力が働くので、ぽんと強く蹴れば体が浮く。

 雀が葉の穴につまずいて水に右足を突っ込んだ。そのまま水に落ちるのを避けようとして、ゆっくり後ろに尻もちをつく。濡れたはずの足はもう乾いている。


「いったいどうなってるんだ……」

「この下もここと同じようになっているから、落ちても問題ないぞ」

「さらに下に行けるんですか?」

「行けますよ」


 橋の上から立夏が答えた。


「下ではミズルとかわずちゃんが天地視書を開いています。私たちはこの階で開きます」

「タケはどうしました?」

「ここにいるぜ!」


 雀のすぐ目の前の水がもこもこ盛り上がり、にょーんと小僧が飛び出した。竹笋生たけのこしょうずは瞬時に体を乾かすと、雀の隣に着地して雀の腕をぐいぐい引いた。


「なんで座り込んでんの? 行こうぜ、早く! 一緒に遊ぼうぜ!」

「こら、タケちゃん。ちゃんと雀くんに合わせてあげてくださいねって言ったでしょう」

「うん!」


 良い返事だが、タケは雀の腕を放さなかった。「早く立てって!」


 橋を三本渡り、ひと際大きく肉厚な葉の上で、立夏は言葉を染み渡らせるように腕を広げた。



「我は夏季が二十四節気、立夏也。我が望みしものを現せ。《天地視書》」



 上空の水面が波打った。青空が消えて白一色となり、そこに景色が滲みながら現れる。足もとの水面も同様で、見える範囲一面が、何千何万という下界の景色に変わっていった。


「さあ、梅子うめこちゃんの筆を探しましょう。見つけても一人で取りに行かないで、必ず私に知らせるようにしてください」


 よーいどん! タケが叫んで雀の腕を掴んだまま駆け出した。雀は浮力で両足が浮き、さながら鯉のぼりのようになりながら、あっという間に小さくなった。


「助かります。雀くんがいれば、タケちゃんもしばらくは飽きないでいてくれるでしょうから」

「どのくらいもちますかね」

「すごぉくがんばって、一時間」

「……日頃のご心労お察しします」


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