11、穀雨(その1)――血を吐いたイタチ、ではない



 別れ際に春分しゅんぶんから饅頭をお土産にもらい、それを雀がうれしそうにむしゃむしゃほおばっている。食べ歩きは行儀が悪いが、注意すべき教育係も片手に同じ物を持っているのだから不問だろう。


 二人並んで歩いていると、玄鳥至つばめきたるはなんとなく隣から視線を感じた。チラッとそちらを見れば、雀のショルダーバッグの口から例のあみぐるみが顔だけ出して、吸い込まれそうな黒い目をこちらに向けている。雀が饅頭に夢中なことを確認し、玄鳥至は指でさりげなくそれを鞄の中へと押し込んだ。


「ねえ、つばきさん」


 ギクッとしたが、雀は何も気づいていないようだった。


「春分さま、イケメンでしたね。清明せいめいさまはさわやかイケメン、春分さまはかっこいいイケメン。そういやつばきさんもイケメンだし、みんなすごくモテそうですよね。ね、つばきさんは彼女はいないんですか」


 雀は年頃らしく色恋に興味があるらしい。よし、黙らせよう。


「これまでのことで、君についてわかったことがある」

「はい、なんですか?」

「美人に弱いだろう」


 うぐ、と雀が喉に饅頭をつまらせた。


「図星か」

「げほっ……、そん、なこと、ないです! 弱いんじゃなくて、緊張するんです!」


 意地の悪い顔になっていることは自覚しているが、こういう素直な反応をする奴をからかうのは楽しい。

 悪かった、とひらひら手を振り、藍白あいじろの布がひらめく廊下の角を指差した。


「あそこを左に曲がると、給湯室がある。誰でも使用していいから、覚えておくように」


 左折してすぐに行き止まりのようで、行く手を塞ぐ布を避ければ小部屋が現れる。広さは畳二枚分、左にコンロと流し台と食器棚、右には木の椅子が一脚と小型洗濯機、その上には物干し竿が渡してあってなかなか便利だ。奥にひとつだけあるすり鉢ガラスの小窓は今はピタリと閉ざされ、部屋には西日の熱がこもっていた。


 玄鳥至は伏せられているグラスを取って蛇口から水を注ぐと、雀に手渡した。雀は空咳を繰り返していたが、一息つくと思い出したようにバッグを漁り、無造作にあみぐるみを取り出した。玄鳥至の頬が引きつった。


「前任の雀始巣すずめはじめてすくうは、もとはスズメだったんですよね、きっと」

「さあ……どうだったかな。憶えてないな」

「スズメとツバメで仲が良さそうだなって思ったけど、あまり話さなかったんですか?」

「そういうわけじゃないと思うが……。忘れてしまったんだよ」


 雀はくったくなく笑う。


「まだ十一年でしょう? 早いですよ!」

「そうだ。その十一年で、俺たちはあいつのことをほとんど忘れてしまったんだよ、奇妙なことに」


 雀は笑いを引っ込め、訝かしむ顔付きになった。


おれたち、、、、ですか……?」

「暦全員だ。時が経つにつれ、どんどんあいつとの思い出が薄れていった。あいつをどう呼んでいたのか。どんな顔で、声で、何色の着物を好んでいたのか。性別だって思い出せない。たしかに存在していたという事実だけは記憶しているんだが」


 玄鳥至は雀の手から空のグラスを抜き取ると、蛇口をひねって水をくぐらせた。手のひらで回しながら指でふちをこする。キンと冷えた雪解け水が指先からぬくもりを奪っていく。


「それでもときどき、何かの香りを嗅いだ時とか食事をしている最中に、記憶の断片が不意に蘇ることがある。せっかく思い出しても瞬く間に霧散してしまうのだが……。いつか君が雀始巣を継いだなら、きっとそういうこともなくなるだろう」

「どうしてですか?」

「うまく言えないんだが、もう必要ないからだろうな」


 雀の瞳がふるふる揺れる。――哀しみ。この少年の瞳は正直だ。


「なんでそんなに平然と語れるんですか。おそろしくはないんですか?」

「よくわからない。それは人間的な考え方だ。そうだな……ああ、まだ先があったのか、と思ったよ。俺たち暦は死なないと思っていたんだ。俺たちの存在は永遠に続いていくのだと。死ではないが、光となって消えてしまったというのは面白いと思った。まだ知らぬ先があるのは面白い。完結したと思っていた本の続編を発見したら、君だって心躍るだろう」

「つばきさんは、そこに行きたいと……?」

「いや、思ってないよ」


 雀は大袈裟にその場にしゃがみ込んだ。


「怖い! あんた怖いよ、つばきさん! 目がマジなんだもん。行きたいのかと思ったよ!」

「進んで行きたいわけないだろ。今の生活だってなかなか気に入ってるんだ。行く時が来たらそれはそれで楽しみだと思っているだけだよ」

「だめですよ」


 雀はきっぱりと言った。


「あんたはおれの教育係なんだから。おれの尻拭いは啓蟄けいちつさまや春分さまじゃなくて、あんたにしてもらわなきゃ」


 おや? 玄鳥至は目をしばたたかせた。こいつは意外と我が強いのかもしれない――苦労して押さえ込んでいるだけで。


「ねえ、つばきさん」


 雀は立ち上がり、あみぐるみを差し出した。


「これ、ツバメじゃないかなあ? ……っておれは思うんですけど、どうですか?」


 口調がくだけてきたなあ。――なんて微笑ましい気持ちは瞬時に塵となり、玄鳥至の両眼は不気味なそれに釘付けになった。


 ――ツバメ。春分さまに「血を吐いているイタチ」と言われたこれが。


「違うと思う」

「認めたくない気持ちはわかりますけど。ほら、この口周りの赤いのって、ツバメの喉が赤いからじゃないですか。鼻に見える黒い部分がきっとくちばしですよ」

「だが全体の色が茶色い。ツバメは紺色だ」

「そこはよくわかりませんけど……。でもおれは、これはツバメだと思います」

「違うと思う」

「強情だなあ。おれは美人に弱いのかもしれないけど、つばきさんはからかわれることに弱いんですね」




 ――つばきをからかうのは面白いなあ。ねえ、ぼくは今、ぬいぐるみを編んでいるんだよ。スズメとツバメ、両方から取って〈スバメくん〉って言うんだ。できたら君にあげるからね。きっと君はいやな顔をするだろうなあ。ぼくは今からそれが楽しみなんだ。




「……悪趣味め」


 己の声を耳に拾い、あっと思った。時すでに遅く、雀は怯えたように目線を落とした。


「ごめんなさい、おれ……怒らせるつもりじゃ……」

「違う、すまん、違うんだ。お前に……いや、君に言ったんじゃなくて、そいつを……スバメを見て言ったんだ。決して君のことじゃない。あいつが、俺はスバメをいやがるだろうって、それで……」

スバメ、、、? ……ツバメではなく? それに〈あいつ〉って……?」


 玄鳥至はしどろもどろになった。


「あいつは……誰だったかな、そう言ったのは……。スバメ……は、ええっと……、スズメとツバメのあいだだから、かな……」


 雀は「ああ、だから茶色なんだ、このツバメ」と納得したが、そこでぷっつりと会話が途切れた。


 玄鳥至はうろたえた。雀の表情を見る限り、どうやらすっかり自己嫌悪に陥っているようだ。これではまるで自分がいじめているみたいではないか。否、失敗したことには違いないのだが。


 ――ああ、面倒だ。いつもならとっくにさじを投げているんだが。


 そしてこういう時に限って誰かに見られるのはなぜなのか。



「つばきが新しい子をいじめてる」


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