11、穀雨(その1)――血を吐いたイタチ、ではない
別れ際に
二人並んで歩いていると、
「ねえ、つばきさん」
ギクッとしたが、雀は何も気づいていないようだった。
「春分さま、イケメンでしたね。
雀は年頃らしく色恋に興味があるらしい。よし、黙らせよう。
「これまでのことで、君についてわかったことがある」
「はい、なんですか?」
「美人に弱いだろう」
うぐ、と雀が喉に饅頭をつまらせた。
「図星か」
「げほっ……、そん、なこと、ないです! 弱いんじゃなくて、緊張するんです!」
意地の悪い顔になっていることは自覚しているが、こういう素直な反応をする奴をからかうのは楽しい。
悪かった、とひらひら手を振り、
「あそこを左に曲がると、給湯室がある。誰でも使用していいから、覚えておくように」
左折してすぐに行き止まりのようで、行く手を塞ぐ布を避ければ小部屋が現れる。広さは畳二枚分、左にコンロと流し台と食器棚、右には木の椅子が一脚と小型洗濯機、その上には物干し竿が渡してあってなかなか便利だ。奥にひとつだけあるすり鉢ガラスの小窓は今はピタリと閉ざされ、部屋には西日の熱がこもっていた。
玄鳥至は伏せられているグラスを取って蛇口から水を注ぐと、雀に手渡した。雀は空咳を繰り返していたが、一息つくと思い出したようにバッグを漁り、無造作にあみぐるみを取り出した。玄鳥至の頬が引きつった。
「前任の
「さあ……どうだったかな。憶えてないな」
「スズメとツバメで仲が良さそうだなって思ったけど、あまり話さなかったんですか?」
「そういうわけじゃないと思うが……。忘れてしまったんだよ」
雀はくったくなく笑う。
「まだ十一年でしょう? 早いですよ!」
「そうだ。その十一年で、俺たちはあいつのことをほとんど忘れてしまったんだよ、奇妙なことに」
雀は笑いを引っ込め、訝かしむ顔付きになった。
「
「暦全員だ。時が経つにつれ、どんどんあいつとの思い出が薄れていった。あいつをどう呼んでいたのか。どんな顔で、声で、何色の着物を好んでいたのか。性別だって思い出せない。たしかに存在していたという事実だけは記憶しているんだが」
玄鳥至は雀の手から空のグラスを抜き取ると、蛇口をひねって水をくぐらせた。手のひらで回しながら指でふちをこする。キンと冷えた雪解け水が指先からぬくもりを奪っていく。
「それでもときどき、何かの香りを嗅いだ時とか食事をしている最中に、記憶の断片が不意に蘇ることがある。せっかく思い出しても瞬く間に霧散してしまうのだが……。いつか君が雀始巣を継いだなら、きっとそういうこともなくなるだろう」
「どうしてですか?」
「うまく言えないんだが、もう必要ないからだろうな」
雀の瞳がふるふる揺れる。――哀しみ。この少年の瞳は正直だ。
「なんでそんなに平然と語れるんですか。おそろしくはないんですか?」
「よくわからない。それは人間的な考え方だ。そうだな……ああ、まだ先があったのか、と思ったよ。俺たち暦は死なないと思っていたんだ。俺たちの存在は永遠に続いていくのだと。死ではないが、光となって消えてしまったというのは面白いと思った。まだ知らぬ先があるのは面白い。完結したと思っていた本の続編を発見したら、君だって心躍るだろう」
「つばきさんは、そこに行きたいと……?」
「いや、思ってないよ」
雀は大袈裟にその場にしゃがみ込んだ。
「怖い! あんた怖いよ、つばきさん! 目がマジなんだもん。行きたいのかと思ったよ!」
「進んで行きたいわけないだろ。今の生活だってなかなか気に入ってるんだ。行く時が来たらそれはそれで楽しみだと思っているだけだよ」
「だめですよ」
雀はきっぱりと言った。
「あんたはおれの教育係なんだから。おれの尻拭いは
おや? 玄鳥至は目をしばたたかせた。こいつは意外と我が強いのかもしれない――苦労して押さえ込んでいるだけで。
「ねえ、つばきさん」
雀は立ち上がり、あみぐるみを差し出した。
「これ、ツバメじゃないかなあ? ……っておれは思うんですけど、どうですか?」
口調がくだけてきたなあ。――なんて微笑ましい気持ちは瞬時に塵となり、玄鳥至の両眼は不気味なそれに釘付けになった。
――ツバメ。春分さまに「血を吐いているイタチ」と言われたこれが。
「違うと思う」
「認めたくない気持ちはわかりますけど。ほら、この口周りの赤いのって、ツバメの喉が赤いからじゃないですか。鼻に見える黒い部分がきっとくちばしですよ」
「だが全体の色が茶色い。ツバメは紺色だ」
「そこはよくわかりませんけど……。でもおれは、これはツバメだと思います」
「違うと思う」
「強情だなあ。おれは美人に弱いのかもしれないけど、つばきさんはからかわれることに弱いんですね」
――つばきをからかうのは面白いなあ。ねえ、ぼくは今、ぬいぐるみを編んでいるんだよ。スズメとツバメ、両方から取って〈スバメくん〉って言うんだ。できたら君にあげるからね。きっと君はいやな顔をするだろうなあ。ぼくは今からそれが楽しみなんだ。
「……悪趣味め」
己の声を耳に拾い、あっと思った。時すでに遅く、雀は怯えたように目線を落とした。
「ごめんなさい、おれ……怒らせるつもりじゃ……」
「違う、すまん、違うんだ。お前に……いや、君に言ったんじゃなくて、そいつを……スバメを見て言ったんだ。決して君のことじゃない。あいつが、俺はスバメをいやがるだろうって、それで……」
「
玄鳥至はしどろもどろになった。
「あいつは……誰だったかな、そう言ったのは……。スバメ……は、ええっと……、スズメとツバメのあいだだから、かな……」
雀は「ああ、だから茶色なんだ、このツバメ」と納得したが、そこでぷっつりと会話が途切れた。
玄鳥至はうろたえた。雀の表情を見る限り、どうやらすっかり自己嫌悪に陥っているようだ。これではまるで自分がいじめているみたいではないか。否、失敗したことには違いないのだが。
――ああ、面倒だ。いつもならとっくにさじを投げているんだが。
そしてこういう時に限って誰かに見られるのはなぜなのか。
「つばきが新しい子をいじめてる」
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