10、春分(その4)――暦に死はあるのか
「あの瞬間だけは、今でもなんとか思い出せる」
春分の双眸は雀色の座布団の上でゆらゆら揺れた。
「いつものように、そこに正座していたんだ。あいつはふらっと立ち上がり、天窓を見上げた。光が天使のはしごのように降りていて、周囲の埃がちらちらと金粉のようだった。あいつは顎を上げた。気晴らしに青空を見上げているのだと俺は思った。しかしそのまま……すうっと、光の中に消えてしまった」
「そのまま消えた?」
雀が繰り返す。
「幽霊みたいに、ってことですか」
「そうだ。それきり誰もあいつの姿を見ていない。……そして、君が来た」
「暦にも死があるんですか?」
埃の舞う音すら聞こえてきそうな沈黙が下りた。
時を置かず、柱時計のカチッという音の後に軽快な「ポッポー」が三回聞こえた時は、その場にいる誰もがほっとした。
「三時だ! どうりで腹が減ったわけだ!」
発が両手で腹を押さえ、がっはっはと大口を開けて笑う。
「立春さまからです。握り飯だそうで」
「おお! つばき、なぜそれをはじめに出さん!」
発は大喜びで、上司が手を伸ばすより早く横からかっさらった。「着物の多い所で開かないで!」桜が叫び、不行儀な同僚を奥の台所へ追い立ててゆく。
「困った奴らだ」
春分は苦笑して、雀に向き直った――雀はひどく傷ついたような顔をしていた。
「いやな思いをさせたな。お詫びと言ってはなんだが、君に良いものを見せようか」
春分は二人を少し離れた位置に立たせ、そこで見ているよう言った。両腕を広げ、部屋全体と向き合うようにその場でゆったりと一回転する。
「我は春季が二十四節気、春分也。我が望みしものを現せ。《
水が湧き出る音と共に、春分の足もとから光の洪水があふれ出した。波打つように畳を覆い、あっという間に段差を埋めて、床板にまで流れ込む。光水は着物という着物に染み込みながら御簾や柱を伝って天窓まで届き、薄くゼリーのようなドームを作った。光に濡れた着物はもとの色柄を失くし、かわりに山や川や空、雲の中が映し出される。ある着物は上空から西洋風の町を映し、モダンな柄になっていた。
「この部屋は、仕事場兼、俺の衣装部屋兼、天地視書なんだ。雀くん、〈春分〉がどういう暦か知っているかな」
「えっと、あの……知りません……すみません」
「ははは、謝ることじゃないよ。じゃあ、春のお彼岸の中日を春分の日と言うんだけどね、それは知っているかな。――そうか、さすがに有名か。春分の日は昼と夜の時間がほぼ等しくなるんだよ。春分の期間は三月二十一日頃から四月四日頃まで。七十二候は、初候・雀始巣【すずめはじめてすくう】、次候・桜始開【さくらはじめてひらく】、末候・雷乃発声【かみなりすなわちこえをはっす】。文字どおりスズメが巣を作って子育てをし、桜が咲き始め、冬には聞こえなかった雷が遠くで鳴る。春に三日の晴れ無しと言うが、まったくそのとおりで、天候が不安定な頃なんだ。急に冷えれば命に関わる。春雷は天からの声だ――『気候の変化に注意せよ』。生きることの喜びと大変さがあわさった節気だよ」
春分から歩き回る許可を得ると、雀は光水に浸かった足を上げ下げして遊び始めた。本物の水ではないので、雀の
三分咲きの桜並木が映る着物の後ろから桜が顔を出し、お茶の用意ができたと告げる。そこで春分は術を解き、二人にゆっくりしていくよう勧めたが、玄鳥至は丁重に断った。
「まだ
「そうだな。穀雨は業務時間内に来ないとネチネチ言いそうだしな」
「実は午前中に
「そりゃだめだ。――では、雀」
春分は温かな笑顔で右手を差し出した。
「道を覚えたら、好きな時に遊びにおいで。俺たちはいつでも君を――君自身を歓迎する」
「あの……、はい」
一瞬、雀は雀始巣の席に目を走らせたが、春分の真正面に立ち、出された手を強く握った。
「おれ、頑張ります」
春分はゆるく首を横に振る。
「気張らなくていいよ。しかしそれが真実自分のためになるのなら、大いに努力すればいい。君は君のまま、他の者に惑わされることなく、自然に生きなさい」
雀は唇を震わせ、「はい」と答えた。
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