8、春分(その2)――雀は人だ
「君のトイレは狭いねえ。それにシンプル! いかにもつばきって感じがするねえ」
「清潔な所で用を足せればそれでいい」
「私のは着物を脱ぎ着する台と姿見もあるよ。性格が出るから面白いよね。ね、この子のはどんな感じだろうね」
二人で雀の顔を見る。「何を言われているのかわからない」と書いてある。これも説明が必要だった。
「戸を開けた者の自室トイレに繋がる仕組みになっているんだよ」
「性への配慮だよ、雀くん。私みたいな
雀の顔には「ちんぷんかんぷんです」とある。そうだ、まだ性についても話していなかった。
「両性体というのは、男と女、両方の性を持つ者のことだ。単純にふたつの性器を有しているってことじゃない。これにも種類があって、桜の場合はへそから上が男性体、下が女性体なんだ。ぱっと見は女のなりをした男だが、下には――」
「ああ、ああ、いいです!」
雀はボボボッと顔に朱を走らせて、空いている片手をぶんぶん振った。
「よくわかりました。なんていうか、すごいですね……」
「まあ、下界で生きていれば、ふつうお目にかかりはしないだろうな。俺たちにとっては当たり前のことなんだが」
「他にもいらっしゃるんですか?」
「いる。さっきまで会っていただろ。立春さまの所の
「あのミュージカル俳優のような方ですよね。たしかにどっちだろうとは思ったけど……」
「それが正しい。どちらでもないからな。どちらかといえば男寄りだが声は女だったろう。それから後で会う
雀はふんふんうなずいた。
「両方の性を持つ者というのは、広い意味で使うんですね。じゃあ、これからお会いする春分さまもそうなんですね」
「あの方は男性体だよ」
桜が口を挟んだ。
「でも女物の着物を着ているって……」
「〈春分〉と聞くとなんとなく春の象徴のような気がするでしょう。四季の春さまはたおやかで大和撫子のような女性だけれど、春分さまはどこをどう見てもがっつり男だからね。あのお方はそれを気にされて、皆のイメージに寄り添おうと、そういう格好をなさっているんだよ」
「本人が自分を女性だと思っているということは……?」
「ないね。春分さまは身も心も男性だ。皆の期待に応えたいタイプなだけさ」
「暦って濃いなあ……」
さて、と
「そろそろ行くが、君はいいのか」
「あっ!」
風呂敷包みごとトイレに入ろうとするので荷を奪い取る。その際ちらっと見えた個室の中は、くたびれた感じの青い便座カバーとマットが敷かれ、まるで昔から住んでいる家のトイレのような生活感があった。雀はそこに何の違和感も持たないらしく、すんなり中へと入っていった。
桜が袖の下でふふふと笑った。
「彼は若いねえ。子雀ちゃんだ」
「ああ。それと……」
玄鳥至は桜に目配せし、トイレから少し距離を取った。
「……間違いない、あいつは人だ」
桜はちょっと眉を上げただけで、先を促した。
「憶えていないわりに、どうも地上での生活の経験があるようだ。はじめは座敷童子や
「それは我々の考えるところではないよ、つばき」
桜が言う。玄鳥至は素直に点頭した。
「それもそうだ。第一、性に合わない。面倒事は嫌いなんだ」
「それでこそ君ですよ」
「お待たせしました! ――あれっ、遠い?」
個室から飛び出してきた雀は置いて行かれると思ったのか、玄鳥至たちのもとまですっ飛んできた。
「手は洗った? 不潔は嫌いなの」
「当然です!」
きゃいきゃい楽しそうにじゃれ合いながら、雀と桜が先を行く。雀は人見知りをするが、相手によってはすぐに馴染めるようだ。それを後ろから見守りながら、玄鳥至は自身の心に目を向けた。
桜にはああ言ったが、実のところ、玄鳥至の胸には釈然としない何かがもやのように広がっていた。
地上で人だった者が暦になった例はない。そのために候補生としての資質を見なければならないのだろうか。否、そもそもどうして前任の
「わあ!」
雀の興奮した声に、玄鳥至ははっと物思いから連れ戻された。
――今、何を考えていた?
頭が重い。なんとなく思考の輪郭を思い出したが、中途半端で余計に気持ちが悪い。それを散らすように軽く頭を振り、雀と桜のもとへ足を速めた。
廊下の先には薄桃色の布がはためく空間が広がっている。幅も長さも不規則な布で覆い尽くされ、柱はあっても壁はなく、天井も布で埋まって視認できない。どこからか風が入ってくるようで、すべての布がバタバタと揺れ、そういう趣向の美術館のようである。避けて歩かなければならないので非常に通りづらいが、この先が春分の仕事場だった。
桜が慣れた足取りで先導する。雀をそばに引き寄せて玄鳥至も後に続くと、雀が横から顔を覗き込むようにしてきた。
「頭、どうかされたんですか?」
「……言うようになったな」
「ち、違います、そうじゃありません! わかってるくせに……。つばきさん、今ちょっと頭を振っていたでしょ。虫でもいたんですか?」
玄鳥至はまじまじと雀を見下ろした。
「俺は、虫は好きなほうだ。美味いからな」
うげえ、と雀は舌を出し、鼻の上にしわをつくった。
「ツバメですもんね。じゃあなんで頭を……」
「つばきは今、幽霊みたいなものを払っていたんだよ」
前を行く桜が振り向きもせずに言う。薄桜の髪が周囲の布に溶けてしまいそうだ。
「さ、桜さん、何を
「みたいなもの、ね。特にこの辺は出るんだよ。ね、つばき?」
ちらり、こちらを向いた桜の瞳に慰められて、玄鳥至は吐息を吐いた。
「まあな」
雀はちょっと怒った顔をした。
「ちょっとちょっと、二人してやめてくださいよ。まさかほんとうに出るわけじゃないでしょう? 新人のおれをからかっているんですよね」
桜は袖に手を引っ込めて、布にあわせてゆらゆら揺らした。
「雀ちゃんたら、怖いの?」
「怖いです」
雀はきっぱり言った。
「そういう冗談は好きじゃないんです」
桜はすぐに手を下ろした。
「ごめんごめん。大丈夫、その幽霊みたいなものは私たちには姿を見せても、君には何もしないだろうから」
「それはどういう意味ですか」
うーん、と桜は人差し指を唇にあてた。
「まあ、きっと今だけだから。一年後には、私たちにも見えなくなるだろうね」
つきん、胸を針で刺されたようだ。玄鳥至は提げている風呂敷包みを抱きかかえた。飯のほのかなぬくもりに、それはすぐにほぐれて消えた。
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