7、春分(その1)――桜と出会う
行きとは違う理由で、雀はまたしょんぼりうなだれていた。
経緯はこうである。
「おれはつばきさんに教わっている身だから」
と食い下がった。それに対し玄鳥至が、
「俺は自分が楽をするために君を連れているわけじゃない。君はすでに鞄を提げているし、俺は手ぶらだ。君は周りをキョロキョロしていればいい。そのうちこの迷路を一人で歩くことになるんだからな」
と諭すと、雀は悄然としてしまったのである。
――面倒な奴だ。
妙に息の詰まる空気を変えようと、玄鳥至は極力優しい声で話しかけた。
「あの二人と何を話していたんだ」
雀はぱっと顔を上げると、見る間に表情を明るくした。それでもはじめはぽつりぽつり遠慮がちに、そのうち興が乗るとマシンガンのように話し始めた。
よほど楽しかったのだろう、雀のえくぼは頬の内側に吸われたままになっている。玄鳥至の一言二言の返しにもいちいちうれしそうに笑うので、玄鳥至にしては珍しくよく相槌を打った。
角を曲がった時、雀のショルダーバッグが障子にぶつかった。雀はひやりとして鞄を両腕でかばい、ぶつかった障子をつぶさに確認した。障子はどこも傷ついていなかったが、それで雀は落ち着きを――
「そういえば、雨水さまの所はどんな
「ああ、そうか。見せてもらえばよかったな」
「おれのためにわざわざそんな……いいんです。ごめんなさい……」
「なぜ謝る?」
雀はぎゅっと鞄を抱いた。
「だって……、おれは勉強のために、皆さんの所にお邪魔させてもらっているのに。ごはんをごちそうしてもらって、楽しくおしゃべりしただけなんて、だめなんです。
みんなの役に立てるのに。雀は消え入るような声で言った。
玄鳥至はこれまでの雀の言動から、ある可能性に気がついていた。しかし今は胸にしまい、落ちた細い肩を元気づけるように叩いた。
「どのみち一年経たないと任命はされないからな。今日はまだ初日だ、気楽にいかないと後々もたないぞ。さっきも言ったが、俺たちは仕事に対してのんびりしているんだ。一人だけキビキビしていたってしょうがない。他の者にあわせることも大切だ。ところで、さっきの中でいちばん美味いと思った料理はなんだった? 俺は
雀は少し元気を取り戻してにこりとした。
「ポテトサラダ。好物なんです」
「ああ、立春さまの得意料理のひとつだ。マヨネーズも自家製なんだよ」
「へえ、すごい!」
手洗い場のある廊下に出ると、前方に人影があった。
こちらに気づいて振り向いた様もまた、絵に描いたような見返り美人であった。
「おや、そこにいるのはつばきじゃないか。見慣れないお客人を連れているね」
艶のあるまろやかな男の声だ。玄鳥至は「
「会えてよかった。ちょうど次は
雀を紹介しようと振り返れば、雀は後方で石化していた。玄鳥至は足早に雀のもとへ戻ると襟首を掴み、桜の前まで引きずっていった。
「この者は春さまからお預かりした
雀は先ほどのワカサギパーティーとは打って変わってもじもじしながら、恥ずかしそうに挨拶した。桜はそれにくすりとして、「よろしく」と会釈を返した。
「できるだけ俺と行動を共にさせるが、もしこいつが一人で困ることがあったら、助けてやってくれないか」
「もちろんだよ。彼が暦になれば、私が最も関わることになるのだし」
「あの」
と、雀がもじもじしながら、
「次は春分の部屋なんですか」
「ああ、そうだ」
「てことは、じゃあ……おれの職場なんですね」
「そうだが……」
「おやおや?」
桜の美しいジト目が玄鳥至に向けられる。
「つばきったら、行き先も告げずに連れ歩いていたんだね。それも彼にとっていちばん重要な場所を」
「失念していた」
「君は真面目で隙がなく見えて、どうもちょこちょこ抜けているよね」
「それくらいのほうが、愛嬌があっていいだろう」
「ふてぶてしいが、違いない」
袖で上品に口もとを覆い、くつくつと喉を鳴らす桜をチラチラ気にしながら、雀は玄鳥至の袖を引いた。
「春分さまの所へ行く前に、少しだけ桜さんとお話ししてもいいですか。春分さまのこととか、あと、末候の方の話とか……。はじめての人ってだけでも緊張するのに、上司となるとなおさらで……」
「それはそうだよねえ。君も真面目な子なんだね。じゃあ、はじめに面白いことを教えてあげようか――きっと初見でびっくりするだろうから。あのね、春分さまは私と同じく女物の着物をお召しだけれど、あれは――」
「すまん、俺はちと小便に」
さっき腹いっぱいに飲み食いしたためか、急にもよおした。荷物を雀に押しつけ、すぐそばにある引き戸を引いて慣れた個室に入る。用を足して外に出ると、桜がにやにや笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます