6、雨水(後編)――消えかけた記憶の断片を見る



 テーブルを埋め尽くしていた品々が瞬く間に皆の胃袋に消えて、時刻は午後の二時半になろうとしていた。


 食べた直後だというのに、黃鶯こうおうが長い足でフローリングをすべるように踊り、女性の低い歌声をのびのびと披露する。回転するたびに金髪とエメラルドのピアスがきらめき、燕尾服のように切った着物の裾が広がった。踊りも歌も即興だが、さながら宝塚の男役である。魚子うおこが手拍子を打って囃し立て、半裸の東風はるかぜが涙でぐしょぐしょの顔を脱いだシャツに押しつける。「いいなあ、感動するなあ……芸術! これほど泣けるものはないよ、なあ!」それからまたおいおい泣き出した。


 立春りっしゅんは少し前から窓際の揺り椅子でまどろんでいる。聞けば昨夜から準備をしていたそうで、あれだけたくさんの美味い料理をこしらえるには、どんなに手際がよくとも時間と労力がかかるのだろう。彼女の膝に落とされたあかぎれだらけの手が愛おしい。


 玄鳥至つばめきたるは部屋奥のL字型ソファで雨水うすいかすみの二人と他愛ない話をし、パキラやシュロチクといった観葉植物や、かわるがわるやってくる多種多様な猫をまったりと愛でていたが、時折目を上げ、春からの預かりものの所在を確認した。


 雀は、今はテーブルの向こう側にいた。彼と年の近い――見た目の話だが――土脉つちのしょう草木くさきとずいぶん打ち解けたようで、二人がたびたび言い争うのを止めるでもなくケラケラ笑って茶々を入れている。雀の口もとにはずっと米がついていて――と、目を凝らして見ればそれは慎ましやかなえくぼであった。


「かわいらしいですね」


 膝のハチワレ猫の頭をなでながら霞が目を細める。猫も糸目でゴロゴロいっている。


「雀くん、来た時はずいぶん肩に力が入っていたみたいですが、今は緊張がほぐれたようで安心しました。人見知りのようでしたから」


 草木に何を言われたのか、雀はキャッと声を上げて土脉の背後に逃げ込んだ。


「俺が思うに、あいつはけっこう誰とでも話せるよ。相手の顔をしっかり見るし。あの二人と相性が良かったのもあるだろうが――」




 ――つばきは面白いね。君を笑う者は少ないけれど、ぼくはよく君に笑わされているよ。君とぼくは相性がいいんだね。ねえ、そう思わない?




「――つばき?」


 優しく体を揺すられ、はっとまばたきした。腰を浮かせた霞が心配そうにこちらを覗き込んでいる。足もとでは膝から落とされた猫がしっぽを左右に振って行ったり来たり、不満げだ。まだぼうっとする頭をすっきりさせるため、玄鳥至は大きく息を吸い、長く吐いた。


「大丈夫ですか」

「ああ……」


 今、何かを見ていた気がする。懐かしい何か。こんなふうに食事しながらなんでもない話をして、笑っていた誰か。自分を面白いと言っていた、誰か――。


「幻を見たね」


 雨水が吐息でグラスの氷をなでる。髪の毛先の鈴がかすかに鳴る。


「僕も今、見たよ。だけどもう消えてしまった。……思い出せない」


 雨水の意味深長な瞳と見つめ合い、玄鳥至は理解した。


 あれは前任の雀始巣すずめはじめてすくうだ――おそらくは。こういうことはこれまでにもあった。不意に思い出されて記憶を辿ろうとすると、煙のように消えてしまうのだ。


「さみしいね」


 雨水は隣でまどろむサビ猫の喉を掻いてやりながら、儚く微笑わらった。


 玄鳥至はもう一度じっくり深呼吸して、肺の中の重たい空気を吐き切ってから、土脉と草木と戯れる雀に近寄った。


「雀、いい時間だし、ここはもうお暇して次へ行こう」


 刹那、雀は瞳に残念そうな色を浮かべたが、すばやく奥に隠して玄鳥至の隣に立つと、立春と雨水の面々に丁寧に頭を下げた。

 ぴょんと草木が跳ねて、親しげに雀の肩に腕を乗せる。


「また来いよ! いや、オレが会いに行くよ!」


 雀はうれしそうにえくぼを深めた。「土脉も?」


「そうですね……」


 土脉は雀の前に来ると、草木を横目で睨めつけた。


「草木と行くとうるさいから、ぼく一人で伺いますよ」

「言ったな! いいか、おまえが部屋を出たらオレは必ず後をつけるぞ! たとえただの小便でもなあ!」

「やめてください、気色悪い!」


 皆の笑いが弾けるあいだから、ぬっと肉付きのいい腕が出た。寝起きでくっきり二重まぶたになっている立春が、四角い風呂敷包みを玄鳥至に押しつける。


「つばき、次は春分しゅんぶんの所だろう? 荷物になって悪いんだけど、これを渡しておくれ。握り飯なんだけどね、さっきパパッとこしらえておいたんだ。あそこにははつがいるから、喜ぶだろうと思ってね」

「ああ、たしかに。ありがとうございます」


 受け取った風呂敷包みの底はまだほんのり温かく、米の良い香りがした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る