2、啓蟄――天地視書
「――そんなわけで、まずは春部署のツアーでもしようかと。ちょうど今日から十五日間は
文字だらけの暦入門書からの解放を待ちわびていたらしい雀は勢い込んで「よろ……」とまで言いかけ、教育係の物言いたげな視線に気づいて跳ねるように立ち上がった。
「雀と呼んでください。よろしくお願いします」
「ははは、元気がいいなあ。こちらこそ、よろしく。この世界のことは右も左もわからないんだな?」
「はい。目が覚めたばっかりで……」
「いいよ、いいよ。ゆっくり覚えていけばいい。――で、記念すべき最初の見学が光栄にもうちのチームということだが……うーん」
黄土色の後ろ頭をわしわし掻きながら、啓蟄はがらんとした部屋を見渡した。
「見てのとおり、任期だというのに誰もいなくてなあ。
「行き先は知りませんが、
啓蟄はがっくり肩を落とした。
「それじゃあ、誰が虫出しの雷を鳴らすって言うんだよ……。おれか? 去年もおれがやったんだぞ?」
一応それらしくメモ帳と三色ボールペンを構えていた雀が『むしだしのカミナリ……?』と汚い字でメモしたので、
「啓蟄【けいちつ】は春季の二十四節気で三番目にあたる。年によって違うが、だいたい三月五日から二十日頃だな。土の下の虫やヘビが冬眠から目覚め、桃のつぼみが花開き、青虫が
その虫たちを起こす役割を担うのが、初候の蟄虫啓戸【すごもりむしとをひらく】。桃の木に春を告げるのは、次候の桃始笑【ももはじめてさく】。青虫を蛹から蝶へと誘うのが、末候の菜虫化蝶【なむしちょうとなる】。これが三候だ。啓蟄さまはそのまとめ役でいらっしゃる。
今は初候だから、まず虫たちを土の中から起こさなければならない。いろいろな方法があるが、そのうちのひとつが〈虫出しの雷〉と呼ばれる
雀は遠慮がちに辺りを見回した。雀の言わんとしていることはわかる。「え、これで繁忙期?」だ。
広い部屋の中央に設置された四つの事務机のうち、今使わせてもらっている菜虫のものだけは埃もなく整理整頓されているが、それ以外は――啓蟄のも含め――大量の巻物や書物や食べかけの袋菓子が散乱していて、おまけに主の姿もない。
啓蟄の部屋は
「二人ともおいで。初雷を鳴らそう」
啓蟄は菜虫宛に軽く書き置きを残し、二人を伴って部屋を出た。
春夏秋冬の四つに分かれた宮のうち、春の宮は寝殿造のだだっ広い屋敷が敷地のほとんどを占める。多くの部屋に壁がなく、等間隔に並ぶ柱と柱のあいだを薄布が幾重も簾のように垂らされて、それぞれの部屋や廊下の間仕切りになっている。見た目に反して壁同等の防音機能が備わっており、声が外に漏れることはない。存分に春の風を感じる造りでたいそう優美だが、慣れない者は迷子まっしぐら、必ず案内役を立てたほうがいいだろう。
左右に垂れる生成りの布がひらひら揺れる。板張りの廊下から絶えず木の香りが立ち上り、甘く眠りを誘うので、雀は歩きながらうとうとしていた。
大量の長細い布に遮られて中の見えない異様な部屋の前で止まり、入り口の布をまとめて端に避け紐で留めると、啓蟄は部屋の中央に向かって火にあたるかのように両手を伸ばした。
「我は春季が二十四節気、啓蟄也。我が望みしものを現せ。《
啓蟄の足もとにぽっとひとつ火の玉のような明かりが灯った。それは薄暗かった部屋の床面にポツポツ跡を残しながら先へ進み、花火が弾けるように広がった。飛散した灯は下から上へ駆け上り、垂れ布の先から染料に浸されるように色味を帯びていく。
全容を現したそこに、雀は少年らしい驚嘆の声を上げた。
部屋の中心はぽっかりまるく空いているが、周囲には横幅三十センチほどの布が高い天井から無数に吊るされ、その一枚一枚に、地上の森やどこかの山や川が、その場にあるように生き生きと揺れた。
啓蟄が手近な一枚に触れると、そこに映っていた野原がぐんと近づいて、土中の様子が観察できた。うぞうぞと蠢く生物のどアップは、虫嫌いなら悲鳴ものである。
「ここに吊るされた何千何万という景色は、下界の様子を映し出しているんだよ」
啓蟄から歩き回ってよいとの許可を得た雀は、目を輝かせて布のあいだを縫い歩いた。雀の後から生まれた風が布に波を起こし、どこかの野山や街中の景色が、ゆらりゆらり、近づいたり遠退いたりする。
玄鳥至は適当に目にとまった布に手をかざした。視点が地から空へ向かおうとして、途中でどうしても動かなくなった。
「悪いな、ここの天地視書はうち専用だから、空の様子は映らないんだ」
啓蟄が傍らに来て笑う。
「てんちししょ、ってなんですか?」
いつの間に戻ってきたのやら、頬を上気させた雀が問うた。啓蟄は雀のメモに漢字を書いてやった。
「おれたち暦が仕事で使う道具だよ。形は節気によってカスタマイズされているが、中身はみんなおんなじだ。この部屋の布のように、下界の様子を見せてくれるんだよ。必要とあれば、音やにおいや気温も体感できる。おれたちはそれを参考に、生き物への指示を出すんだ」
雀は近くの天地視書を覗き込んだ。
「寝ぼすけな虫やヘビって、けっこうかわいいですね」
「お前さん、虫はいけるクチか。そりゃそうか、スズメだもんなあ。食料だよな」
「おいしそうには見えませんけど……、土の中や巣穴の様子が見られるのは面白いです」
「愛でてくれているところ悪いが、これからそいつらをどんどん叩き起こすぞ」
啓蟄が舞台のように開けた空間の中央に立つと、真上からしゅるしゅると黄金色の紐が垂れてくる。それを掴み、にっと白い歯を見せた。
「虫出しの雷、今年一発目、いきまーす」
ぐん! まっすぐ強く下に引くや、布に映し出された景色のいくつかがピカッと光った。
「あっ」雀の声に少し遅れて、部屋の至る所からゴロゴロと腹の虫が鳴るような音がする。
啓蟄は誇らしげに紐を掴んだ手とは反対の親指を立てた。
「事前に雷神さまに申請しておいたんだ。雷神さまのご機嫌が良くて、今年は早めに雲をおこしていただけたから、例年よりも多くの場所で鳴っているようだ。どうだ、雀。試しにやってみないか」
「いやいやいや、啓蟄さま」
玄鳥至はすぐさま待ったをかけた。
「こいつは加減がわかりませんよ。お気持ちはうれしいのですが、さすがにまずい」
「おれも紐を持っているから大丈夫さ。引きすぎそうならすぐに止めるよ」
ほらほら、と啓蟄が楽しそうに雀を手招きするので、玄鳥至はしぶしぶ引き下がった。教育係のゴーサインを受けた雀はおっかなびっくり紐に近づき、啓蟄より下の部分を遠慮がちに握る。
「あまり強く引くな。やりすぎると大変なことになるんだ。だが弱すぎてもだめだ。勢いをつけず、くいっと引く。神社の鈴の紐も、揺らすんじゃなくて下に引く所があるだろう? あんな感じでやれば間違いはないよ」
小さく返事をし、雀はきりっと凜々しい顔をした。両手で紐を持ち直し、頭上を仰ぐ。天井は霧が広がっていて、紐の先端はそこに吸い込まれるように消えている。
啓蟄が目で促したので、雀はすうっと息を吸い、下に向かって力を込めた――。
その時である。
「啓蟄さま! 虫啓と桃を捕獲しました!」
突如響いた甲高い声に、慣れているはずの啓蟄と玄鳥至ですら心の臓が跳ねたのだから、新入りならなおのこと。
「ああっ!」
雀の手もとが狂った。入り口に気を取られた啓蟄は初動が遅れ、強く引かれた紐の先が床につく。部屋中の布がビカビカと春の雷らしからぬ光を発すると、辺り一面真っ白になった。直後――、
ドオオオーン!
部屋全体を揺るがすほどの衝撃がきた。啓蟄はなんとか踏ん張ったが、雀は床に尻もちをつき、どこかで菜虫のか細い悲鳴がした。
玄鳥至がとっさにそばの布にしがみつくと、眼前の山の景色がぐんと近づき、ぱっちり目を見開いた土中の虫たちが右往左往する様子が見えた。可哀想に、目覚めてすぐに飛び起きるのは体に良くない。
じきに山の景色の一部が赤く染まり始めた――火事だ。
「菜虫! 雨を降らせろ!」啓蟄が叫んだ。
「無理ですよ! 私は雨とは繋がってません!」菜虫も叫び返した。
「そうじゃない、誰でもいいから雨に通ずる暦の力を借りてこい!
「俺が行く!」
玄鳥至は体勢を立て直し、入り口に向かって駆け出した。
「雀、啓蟄さまのおそばにいろ!」
啓蟄の足もとでうずくまる新入りが青い顔で首を縦に振るのを確認し、玄鳥至は両腕を後ろにピンと伸ばした。菜虫が邪魔になる布を持ち上げ、道を空けてくれている。
玄鳥至は走りながら上体を低くした。
電光石火。
その後、玄鳥至の疾風迅雷の働きで地上に消火の雨がもたらされ、啓蟄はじめ皆が安堵にへらへら笑った。が、偶然廊下で出会い、わけもわからぬまま連れ去られた穀雨によって嫌味の長雨まで降り注いだのは、ご愛嬌というものだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます