【春】

1、清明――新入り雀がやってきた


 七十二候しちじゅうにこうを知っているか? ――なに、知らない? ならばはじめから説明しよう。



 まずは四季。春夏秋冬、一年をかけて移ろいゆく季節の変化だ。……言わずもがな、か。


 次に二十四節気にじゅうしせっき。これは聞いたことがあるだろう。一年を二十四等分、約十五日ずつに区切ったもので、厳密には十二の節気せっきと十二の中気ちゅうきとに分けられる。月の前半にあるものを節気、後半のものを中気と呼ぶが、すべて節気と呼んでも差し支えない。節気は立春りっしゅん立秋りっしゅうなど、中気は夏至げし秋分しゅうぶん冬至とうじなどが有名だ。


 七十二候はその一節気をさらに三つに割ったものを言う。十五日を三で割るので、一候につき五日。たった五日のあいだにも繊細に移ろう季節を知ることができる、昔ながらの生活の知恵――それがこよみだ。


 他に雑節ざっせつというものがある。節分せつぶん入梅にゅうばい土用どようなどがそうだ。全部で九つ。雑節は七十二候と違い、年に複数回ある者もいる。「うっかり仕事を忘れてしまいそうだ」と、以前土用さまが苦笑していた。


 組織の仕組みだが、それぞれ所属する部署がある。四季の下に二十四節気があり、その下に七十二候があり、雑節は別働隊として置かれている。


 一節気の下には三候がつく。それらを初候しょこう次候じこう末候まっこうと呼ぶ。

 たとえば、玄鳥至【つばめきたる】は《四季・春》の《二十四節気・清明せいめい》の《七十二候・初候》になる。同僚は、次候に鴻雁北【こうがんかえる】、末候に虹始見【にじはじめてあらわる】がいる。

 ちなみにかしこまった場面で名乗る時は、「春季の清明属、初候、玄鳥至です」と言う。文字にしてみると漢字だらけでうんざりするだろうが、こればかりは変えられないからあきらめてくれ。


 さて、いよいよ暦の仕事だが――。



「うちの部屋で何してるんだ?」


 降ってきた声に顔を上げると、男が興味津々に手もとを覗き込んでいた。年は三十路前後、塩顔に散るほくろが心安い。


啓蟄けいちつさま、すみません。いらっしゃらなかったので、菜虫なむしに許可をとってお待ちしておりました。今新入りに俺たちの仕事を教えているところで」


 啓蟄は玄鳥至の隣の緊張顔を物珍しげに眺め、またこちらを向いた。


「なんだってお前が教育係に選ばれたんだ」

「俺だって疑問ですよ。始業早々、春さまがうちの部屋に現れて――」



 事の発端は一時間ほど前に遡る。


 玄鳥至が渡り中のツバメたちを愛情深く見守っていると、清涼な風の通る仕事部屋に、にわかにフローラルな香りが漂った。

 いち早く反応したのは虹始見にじはじめてあらわるだった。


「あれ! 春さま、珍しいですね。どうなさったんですか」


 己の季節を迎え、いつも以上にふわふわと朗らかな陽気をまとった春の化身が、入り口の薄布を風に巻き上げて入ってきた。

 後ろには見ない顔を従えている。薄い青の着物に灰白色かいはくしょく裁着袴たっつけばかま、見た目だけなら十四五歳の、焦げ茶色の髪の少年だ。目をとろんとさせて、長湯でもしたかのようだ。


 この部屋の主である清明がすぐに立って出迎えた。


「いかがなさいました。ご用がおありなら、こちらから伺いましたのに――」

「皆の仕事の手を止めてしまってごめんなさい。実は玄鳥至に頼みがあって。この場で少しお借りしても?」

「もちろん、どうぞ」


 さわやかな上司を横目に、玄鳥至は「いやです」という言葉を喉奥に用意した。


「春さま、本日はお日柄もよく……。わざわざのお出まし、痛み入ります」

「まあ、この子ったら、もう断るつもりでいるわ」


 部屋中の視線が背中に突き刺さり、玄鳥至は用意したのとは別の言葉を歯の隙間からキリキリ絞り出した。


「まずはお伺い致しましょう。どんなご用件で?」

「あなたに新人の教育を任せたいのです」

「はい?」


 後ろでぼんやりしていた少年がピクリと反応した。目が泳いでいる。


「この子は上界の神々からお預かりしました、新たに雀始巣すずめはじめてすくうを担う者です。と言っても、まずはこの一年をかけて暦を勉強し、資質を見極めてから、次の春に正式に就くことになります。あなたは常にこの子をそばに置き、暦のなんたるかを教え――」

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」


 遮った。当然だ。無礼? 知るかそんなもん。


「空席の雀始巣が埋まるのは良いことです。俺もそれは喜ばしい。ええ、実に喜ばしい。なにせ前任が消えてから十一年経っていますから。しかし問題は、なぜ自分が、というところにあります」

「適任だと思ったの」

「以前にも聞いたことのある台詞だな」


 満を持しての「いやです」を繰り出す時だ――が、いざ口を開けばバツンと背中を張られ、盛大にむせた。


「お前はすげえなあ、つばき! これはつまり、春さまのみならず四季の皆さまの総意ってことだろう! 引き受けねえなんてことはまかり通らねえぜ!」

おおとり……」


 鴻――鴻雁北こうがんかえるは心底うれしそうに、筋肉でコーティングされた腕一本で玄鳥至の肩をホールドした。鴻は暦の中でも高身長の頑健な男だ。スマートなゴリラにじゃれつかれるのを想像してみてほしい。

 もがく玄鳥至を難なく押さえ込み、鴻はうきうきと新入りに話しかけた。


「よう、少年。お前さんのことをなんと呼ぼうか」


 新入りは情けない顔をして何か言いかけ、結局しゃべることなく口をつぐんだ。


「おいおい、どうした。さては照れ屋さんか?」

「名乗れないのですよ、鴻。この子はまだ自分のことをはっきりと認識していないのです」


 春の言葉に新入りは、「はい……」と自信なげに口を開いた。声変わりしたばかりのような、不安定にかすれた声だった。


「目を開けたら知らない天井が見えて……頭がよく働かなくて、真っ白な布団が気持ちよくて、しばらくぼうっとしていたら、春さまが迎えに来てくださったんです」


 どこかぎこちなく、言葉を選びながら話しているようである。敬語に慣れていないのだ。

 ふむふむと清明が顎に手をあてる。


「生まれたてなんだな。忘却の彼方に置いてきてしまったのだけど、私もそうだったような気がするよ。なあ、虹始こうし?」

「はい。ボクも憶えていませんけど」


「この者は――」


 ようやく鴻の筋肉から逃れ、玄鳥至は春に向きなおった。


「はじめから暦として生み出されたということでしょうか。それとも下界から転生したのでしょうか――俺のように?」


 玄鳥至は、もとは地上で生を受けた何の変哲もないそこらのツバメであった。ついでに言うと弟の玄鳥去つばめさるともその頃から兄弟だったらしい。それこそ頭の片隅にも残っていないが。


「わたくしは何も伺っておりません。雀始巣の候補なのだから、スズメだったのかもしれませんね」


 春は難しい顔をしている新入りのボサボサ頭を絹に触れるような手つきでなでた。懸命に記憶を探っているらしい新入りは、トイレで便秘に悩まされているような目つきで床板を睨んでいたが、だしぬけに顔を上げて玄鳥至をまっすぐ射抜いた。黒いどんぐりまなこがつるりと光る。


「おれの呼び名は玄鳥至さんが決めてください。おれはただの候補なので、まだ雀始巣を名乗れません。生前、と言うのかな。そういうのがあったようにも思えないし、好きに呼んでもらって構いません」

「俺はまだ引き受けるなんて一言も……うっ」


 ばふん、視界が紺一色になる。袍の袖から気取らぬ新緑の香りが広がった。


「ではすずめくんにしよう。私は清明。つばきの――ああ、〈つばき〉とは玄鳥至の愛称だ。君も彼を呼ぶ時はそう呼びなさい。私はつばきの上司だから、つばきは内心舌打ちしても、きっとうなずいてくれるだろうよ」


 玄鳥至はそのとおり心の内で鋭い舌打ちをかまし、「ええ、まあ」と抑揚乏しく返事した。

 清明はにっこり笑って、


「軽く説明するとね、私たち清明の者は、だいたい四月五日から十九日頃を任期として持っている。まだひと月先だけれど、任期の前後二ヶ月はもうしっかり繁忙期に入っているから、今も己の役割を果たしていたんだよ。

 玄鳥至はその名のとおりツバメが来る頃、鴻雁北はカリが北へと旅立つ頃を言う。だからつばきと鴻はツバメやカリといった渡り鳥の動向を常に見守り、必要とあらば合図を送る。

 それから、春は雨が多いだろう? 雨が降れば虹がかかる。虹始は天の神々のご意向を伺い、虹を生み出す準備をしている。

 清明とは天地が清々しく生き生きと輝き出す季節のことだ。君は私たちの前の節気、春分の者だから、私たちと関わり合うことも多いだろう。つばきのそばについて、いろいろなことを学びなさい。この男は面倒くさがりだが、なんだかんだいい奴だから、安心して過ごせばいいよ」


 やむなし――玄鳥至はギギギと油の足りない機械のような動作で点頭した。雀もぎこちなく頭を下げる。申し訳なさそうにしながらも、両目は教育係からそらさなかった。


「つばき」


 春は春風駘蕩しゅんぷうたいとうたる微笑みを浮かべた。


「雀のこと、たしかに任せましたよ。この子を導いてあげてくださいね」



 早くから準備した「いやです」の出番は来なかった。

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